2007年10月7日から7年経過
明日は、岐阜県中津川市でユメ先生。福井で仕事&ウエイトトレーニングを終えて先ほど中津川入り。
ユメ先生で、子供たちに話をするときにほぼ毎回でてくるドイツでの左ひざ脱臼の話。
今日、移動中にふと思いだした。「あれ、左ひざ怪我して何年やろ?」
2007年10月7日にドイツでの試合中、僕の左ひざは外れた。左ひざを脱臼した。ちょうど今日で7年。
左ひざが外側にくの字に曲がったとき。痛みとか、そういうことよりも、「ああもうハンドできへんくなるな。」「ピルナをクビになるな。引退やな。」「どうやって生きていこうかな。」こういう現実的なことが頭に浮かんできた。
たぶん、7年前の今頃タンカで運ばれたんちゃうかな。
前十字&後十字靭帯、内側靭帯、半月板、ほぼ全滅。
「たぶん自力で2足歩行できないよ。車いすかもね。」「日本に戻って釣りでもしたら?」
精密検査のあとに、ドイツのドクターにそう言われた。
「どこの国でもいいし、どんなレベルでもいいからもう一度ハンドボールがやりたい。」
ただそれだけだった。
2年間リハビリして、膝がよくならない、チームが決まらない、それなら引退しようって決めた。
2年間、日本とドイツを行ったり来たりしながら、リハビリを続け、チームを探し、仕事を探した。
一度、ドイツでも決まりかけたチームの話がビザの問題もあって振出しに戻った。朝起きて、もう何もしたくなくなった。
その頃は、世界中どこにも自分の居場所なんてないように感じた。
それでも、大西さんとのリハビリを続けて、チームを探して、仕事を探す以外になかった。それしかなかった。意地だった。
日本リーグの全チームに連絡した。
1年と11か月と10日ばかりが過ぎたころ、今のチームで復帰戦だった。
もうあと3週間遅かったら引退だった。
あれから7年。引退は常に頭にある。毎秒近づいているのは間違いない。
ピルナのチームメイト、カールハインツ達、ピルナでの最終戦、日本での大西さんとのリハビリ、もう一度ドイツに渡ってビザが取れなかった事、日本リーグ全チームに復帰したいと連絡を入れた事、コラソンと北電で悩みに悩んだ事、就職活動、ブルータグや泉さんとの出会い、2009年9月の復帰戦、大西さん(北電トレーナー)との個人トレーニングの日々、ベンチを温める日々、若手とのレギュラー争い、連戦連敗、東アジア選手権、コーチ兼任選手スタート、チームメイト達の引退、世代交代。
ピルナをクビになって日本に戻ってくる時の事は今でも鮮明に覚えている。
カーツハインツ達がピルナに掛け合ってくれて、普段は松葉杖生活の僕を首位との大一番にベンチに入れてくれました。そして足を引きづりながら向かった7MT。
「決めても、外してもそんな事はどうでもいいから、這ってでもいいから自分でベンチまで戻ってこい。」
そうマティアス(監督)に言葉をかけてもらってコートに入った。残念ながらこの7MTはGKに止められてしまったけど、そのときの悔しさ&嬉しさがあったから、もう一度この場に戻ってこようと強い気持ちを持つ事ができた。
ここでは書ききれないくらいの思い出があるし、ドイツ、日本と国を超えてほんまに何人の人にお世話になってきたのかも分からない。
ハンドボールを続けることができるだけでありがたいという気持ちもホンマ。
負けてくやしい。勝ちたい。上手くなりたい。ここままじゃあかん。そんな欲があるのもホンマ。
7年過ぎた正直な気持ち。
みなさん、ありがとう。