【第2回】左腕坊主インタビュー(全7回)
純粋に「男としてかっこええなぁ」と思った。
- 大学卒業後はどうされたのですか。
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大学時代は、社会人でも続けられるなんて思ってなかったので、普通に就職活動して、内定もいくつかもらってましたね。でも、その4年生の夏に西日本インカレの決勝まで行って、優秀選手賞を取った時に、日本リーグの数チームが興味を持ってくれたみたいです。そのあたりから、ハンドボールを続けていきたいなって考えるようになりました。
でも、同期15人のうち、大学卒業時に日本リーグへ行けたのは僕だけでした。(後に大学同期の長谷川聖はトヨタ車体で活躍していますが。)日本リーグ全体としても、僕らの代で日本リーグに行ったのはたぶん全国で5、6人ぐらいしかいなかった。だから、本当に狭き門やったと思うんですよ。
- 4年生の時は、同級生の中で一番上手い選手だったのですか。
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いや、そんなことはないです。同期に全国屈指のコントロールタワーがいて、彼が作ってくれたチャンスを点にしていた。だから、得点自体はチームでいちばん番多いとは思うんですけど……でも、レギュラーになり出した春先の頃はたぶん足引っ張ってばっかりやったんで。
そんな中、蒲生監督が「日本リーグのチームから話があるけど、どうする?」って聞いてくれて。どこが強いとか当時は全然知らなかったんで、「本田技研鈴鹿でお世話になります」と答えました。
- 本田技研に入社された時の環境はいかがでしたか?
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チームは僕が入った時に6年連続日本一を達成中でほとんどが全日本メンバーだったし、世界選手権での優勝、ブンデスリーグ得点王の経験があるフランス代表のストックランも助っ人でいましたしね。当時ベンチに入れたのは14人かな。本田技研鈴鹿のベンチに入るってことは、サッカーで例えるなら、全日本代表メンバーがメインのチームの一員になるようなものだったんです。
しかも僕、世界トップのストックランと、ポジションが同じだったんです。全日本の同じポジションのレギュラー格の人がストックランの控えとしていて、僕はさらにその人の下。
大学1年の時は「頑張ったらいつか絶対レギュラーになれるわ」とか「選手としての伸びしろは絶対に負けへんわ」って、まあ下手くそなんですけど、努力さえすれば絶対試合には出れるって思えたんですね。でも、本田技研鈴鹿のときは、自分がストックランを乗り越えてレギュラーを取れるなんてイメージは、なかなか現実のものとして思い描けなかったですね。ストックランをサッカーで例えるなら、メッシやC・ロナウド、ジダン、ネイマールみたいな存在です。その世界的な名手とポジションが同じ…。今考えると、自分で無理だと思う時点で可能性をなくしていたんだと反省していますが、それこそあり得ない話なんですけど、一日24時間以上練習したとしてもストックランに勝てるとは思えなかったです。
部員が20人ほどいて、その中で14人がベンチに入れる。自分は、下位チームとの対戦のときは使ってもらえたりするんですけど、日本一を懸けた試合なんかはベンチ入れずに、応援席で先頭になって太鼓叩いたりしてました。それでも毎日、世界一の選手とポジション争いをしていると言う事は、世界一の経験が毎日できるって気持ちをシフトしてトレーニングに励んでいました。
本田技研鈴鹿では結局レギュラーを取ることはできなかったんですよ。そして、4シーズン目に本田技研熊本に移籍して。同じ会社なので社内人事的には異動なんですけど、でもライバルチームに移ったんです。そこからチームのレギュラーとして日本リーグの試合にコンスタントに出られるようになりました。
- その後はどうされたのですか?
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本田技研熊本で1シーズンやった後にチームの方針が変わり、「今後は大卒のルーキーは採りませんよ」ということになってしまった。ほかのチームに移籍したりで、主力がゴッソリ抜けたんですよ。僕は「強化選手で呼んでもらったのに、ここですぐ抜けるのは不義理やな」とか、自分勝手に責任を背負いこんで「おれは残って続ける」って思ってやってました。
でも、3シーズン目のときに、もういよいよ「このチームにこれ以上おったらあかん。今期で最後にしよう。」って自分で決めて、個人でしっかり結果残そうという覚悟でシーズンに臨みました。
精神的にはしんどかったんですけど、個人の成績に限っては、その本田技研鈴鹿での3シーズン、本田技研熊本での2シーズンの合計5シーズンの総得点よりも、ラスト1シーズンの方が得点を取れたんですよ、69得点、全試合得点しましたね。
チームは全然勝てなかったんですけど、気持ちをシフトして、どんだけ点差が離れて負けていても、ここで1点、2点を取ることが来年自分がどこかでやれるかどうかにかかってくると思って。それに、やっぱり熊本が好きだったし、応援してくれてた人にはやっぱり活躍してるところを見てもらいたかったんで、そういう思いで最後の1年はやってました。
- 本田技研熊本を辞めてから、どのようなことを考えていましたか?
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まず先に思ったのは、古巣の本田技研鈴鹿に帰りたかったんですよ。それに、やっぱり世界のホンダっていう企業を辞めるのは、常識的に考えてナンセンスじゃないですか。
もう1つの選択肢は、当時日本リーグ王者のチームで、しかもソウルオリンピックでメダルを取った素晴らしい韓国人監督が率いていたんですけど、その監督がシーズン中から「うちへ来い」ってよく声をかけてくれていたんですよ。
最後の選択肢は、海外に行くこと。以前、本田技研熊本で一緒にプレーしていた吉田耕平が、エストニアに行ったんです。彼がオフのときに日本に帰って来て会った時に、プレーヤーとしてはもちろん、人としても「こんなに日本出たら差つくんか!」っていうくらい成長していた。歳は僕の1個下なんですけど、純粋にやっぱり「男としてかっこええなぁ」ってすごく思って。
- 「かっこええなぁ」と、どのようなところを見て感じたのですか?
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「日本を出たからこそ、より日本のことが好きになった」とか「日本人として大切にしたい考え方がわかった」とか、そういうことですね。それに、僕らは会社に所属する形でプレーしてましたけど、彼はもう向こうでプロでやってたので、家族の生活をかけてやってる姿はかっこいいなと思いました。
そういうのを見て、「こんなぬるま湯でやってたらあかんわ」っていうのを、当時は20代後半でしたけど、僕はすごく感じましたね。そのときに初めて「ハンドボールでメシ食ってみたい。自分がどこまでやれるかヨーロッパで挑戦したい」と思ったんです。