【第5回】左腕坊主インタビュー(全7回)
それで無理やったら、もうスパッとやめよう。
- ケガされてから、手術されるまでにどれぐらい期間がありましたか?
- 2ヵ月半ぐらいですかね。1回目の手術の時は、患部を切開してはみたものの、グチャグチャ過ぎて何も出来なかったみたいで、悪い血液とかを抜いただけ。腫れがひくのを待って、2ヵ月半ぐらいしてからですね。
- 手術した結果はどうなりましたか?
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手術自体は、靱帯がちゃんとつながって、うまくいったみたいな話をされたんですけど、どこの靱帯をつなげたとかも、正直分からないんですよね。手術終わったらケガをした左足だけではなくて、右足もグルグルに包帯巻いてあったんですよ。
事前の説明では、全身麻酔をするから承諾してサインしてね、みたいな説明をされて、それは分かったってサインはしたんですけど。右足どうのこうのっていうのを、全然理解できてなくて。「なんで左足をケガしたのに、右足?」って言ったら、両膝裏の腱を取って、前十字と後十字靭帯に移植したと。
膝の中の骨を削って、穴を開けて、トンネル掘って、ボルトでつないで、前十字と後十字を再建しました。でも、不安じゃないですか、日本に帰ってもう一回手術したいって言ったら、「でも手術は成功してると思う」って言われました。
当時は向こうでちゃんとしたリハビリをさせてもらってなかったから、半信半疑やったんですけど、日本に帰って来て診てもらったら「ドイツの先生はゴッドハンドや。むちゃくちゃうまい」って言われました。
- 後遺症などありますか?
- 膝自体の慢性的な痛みとかはありません。一時期は太腿裏の肉離れに悩まされました。両膝裏の腱を1度取ってる、言ってみれば組織を人工的に壊してるわけじゃないですか。しょっちゅう「今のやばい」ってのはありました。あと今でこそ慣れてきましたけど、左足自体が思うように動かせませんでした。例えるなら利き手の反対で字を書いたり、箸を持っている感覚に近いっていうか、そういうしっくりこない感じはずっとありました。
- 手術後は、この後どうするか考えていましたか?
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ハンド競技に復帰するために、絶対に諦めずに2年間はリハビリ続けようと。それ以上やって無理やったら、もうスパッとやめようというのだけ、締め切りを決めましたね。
いきなり決めたわけじゃないですけど。でも、あまりにもう……リハビリし出して、自分の足の指も動かせなかったりとか、「歩けるのかな?」くらいのひどさだったんで。だから、とにかく2年間って決めて、リハビリしてましたね。
- 2年間というのは、何がその基準だったのですか?
- いや、別に科学的根拠はまったくないですね。やっぱりそのとき、30歳でけがしたんで、現実的にハンドできなくなったとしても、人としては生きていかなあかんわけじゃないですか。そう考えたらやっぱり、次に何するかが大きな岐路にはなるじゃないですか。だから、なんとなく32、3歳で、もう引退をするならそこぐらいで何か次のことも……まあハンドのコーチしたりとか、一生関わっていくとは思うんですけど、無理やった場合はもうそこぐらいかなという考えです。
- その2年間はどうされたのですか?
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ドイツのチームの契約を解除されて、大西貴幸トレ―ナ―のもとでリハビリしてました。大西さんには「まず人の足に戻しましょう」と言われましたね。完全につま先が外向いていたし、骨盤も変形してましたから。だから、とにかくつま先をまっすぐ出せて、膝もまっすぐ出せる歩き方をまず絶対にできるようにしようと。
それとあわせて、筋力をまず戻していきましょう、そしてアライメントって言うんですけど、膝の動きや筋肉を正しく調整するために足の指でタオルで掴んだりとか、スクワットしたりだとか、ゴム引っかけてこうやって動かす練習だとかを延々と1日何時間も。全部で50種類くらいあったと思いますけど、本当に複合的にいろんなメニューをその都度やりました。
- リハビリの後はどうされましたか?
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2008年の3月から8月までそこでお世話になってたんですけど、まだランニングもできないのに、僕アホみたいにもう一度ドイツに行ったんですよ。日本に帰って来る前に、何もなしで帰って来たら、ドイツで復帰できへんと思ったから。また同じようにDVD持って、ドイツのほかのチームに、手当たり次第行ってたんですよ。「今けがしたけど、また復帰したい」って言って。
もうレベルなんてどこでもいいから、とにかくハンドがやりたいっていうのを話したら、ドイツの5部ぐらいのチームから、「ジュニアのコーチをしながら復帰を目指して、けがの状態が良くなったら選手に復帰しないか?」という感じの話が来て。
「走れもせえへんくせに」って大西さんに呆れられたんですけど、結局行ったんです。ただ、リーマン・ショックのあおりなのか、3ヵ月の間に滞在ビザが取れなくて、チームとの契約はしたんですけど、3ヵ月以上いると不法滞在になるんってことで、やむを得ず2008年の11月に日本に帰って来ました。そこからは日本リーグの全チームにまた手紙書いて、なんとか復帰したいんやっていう話で。そこからはもうずっと日本にいましたね。
- そのセールス・プロモーションと言うか、営業活動はすごいと思います。
そういったやり方はご自身で考えられたのでしょうか。それとも、そういうことをされてる方がほかにいらしたのですか。 -
いや、自分でです。そうする以外になかったっていうだけのことなんですけどね。代理人もいないですし、リハビリだって、僕が頑張らない限り、歩けるようにも、ハンドできるようにもならないし。僕が自分でチーム探さないことには誰も見つけてくれない、ただのけが人なんで。だから、自分で、必死になって動いていました。
今だったらちゃんと代理人を探して、ビザを取ったり、契約の内容をまとめたりは専門家に任せて、自分がよりプレーに集中・専念できるようにすると思います。ただ、それは今だから分かることであって、自分でやったからこそ、行動できる力みたいなものが養われたように思いますね。