ブログ&ニュース ( ユメ先生 )

ユメセン @伊深小学校

[ ユメ先生講師 ]

11月14日、岐阜県美濃加茂市の伊深小学校に「夢先生」として登壇。子どもたちの元気な声に圧倒される。体育館でまずはみんなと体を動かすゲーム。笑い声が飛び交って、こっちも自然に笑顔になった。

ゲームのあと教室に移動して夢トーク。

僕はどこにでもいるゆるゆるの面倒くさがりの高校生だった。中部大学に進学後に本気でハンドボールに没頭するようになり、自分の人生が大きくシフトし出した。

ホンダでのストックランはいつも圧倒的でプレーオフではいつも応援スタンドで太鼓を叩いてた。

安定を捨ててドイツに渡って2年目に左膝を脱臼してピルナをクビになった。

貯金を切り崩しながら約2年間意地になってリハビリを続けた。

いつも周囲からは「アホか、ムリや、やめておいた方が無難だ」と言われた。

それでも何とか北陸電力BTに拾ってもらった。37歳まで現役選手を続けることができた。

自分がハンドボールをやってきて学んだこと、努力して挑戦することの面白さをできるだけわかりやすく話した。

そして夢シートの記入&発表タイム。

サッカー選手、野球選手、学校の先生…いろんな夢を口にしてくれた。小さな夢でも、まず口に出して周りと共有することが大事なんだなって改めて思った。

子どもたちが夢シートに自分の夢を書き込む際になかなか筆が進まない子もいた。将来の夢の部分は空欄。でも真剣に考えている様子が伝わってきた。その子は仲間の発表を見て最後に勇気を出して手を挙げてくれた。

自分の席で立ち上がり、「僕の将来の夢は…」と止まってしまった。

「今、好きなことや興味のあることから話してくれてもいいよ」と声をかけた。少し言葉に詰まりながらも、今得意なことや興味があることを話してくれた。

ここまででも勇気を出してよく頑張ったなぁ。この後どうしようかなぁと考えながら暫くその子の様子を見守っていた。

そうすると涙を浮かべ声を震わせながら「今は夢がないけど、自分が夢中になれる何かを見つけたいです。」とはっきり語ってくれた。

クラスメイトも涙目になりながら、その発表に真剣に耳を傾けていた。

何とも心温まる瞬間だった。

今回のアシスタントはトマちゃんこと泊さん。今回もありがとうございました。



ユメセン @八百津町 ~午前は錦津小&久田見小、午後は和知小~

[ ユメ先生 ]

10/24はJFAの「夢先生」として岐阜県八百津町へ。
この町は第二次世界大戦中に“命のビザ”で多くの人を救った外交官・杉原千畝の生まれた地。


午前は錦津小と久田見小の合同クラス。
最初は体育館で、子どもたちと一緒に体を動かすゲームの時間。
走って、笑って、転んで、また笑う。
子どもたちの無邪気なエネルギーに引っ張られて、気づけば僕も全力になっていた。

午後は和知小へ。
体を動かしたあとは教室に移動して「夢トーク」の時間。
ドイツでの挑戦や、ケガでボールを投げられなくなった日、
そこからもう一度立ち上がった話をした。

最後は夢シートの記入と発表。
子どもたちは真剣にペンを動かし、迷いながらも言葉を探していた。
書き終えたあと「発表したい人?」と声をかけると、一人また一人と手があがる。


勇気を出して自分の夢をまっすぐな声で話す子どもたち。


「お花屋さんになりたい」
「サッカー選手になりたい」
「人を助ける仕事がしたい」

「Youtuberになりたい」

みんな勇気を出して発表してくれた。まだ夢中になれる夢が見つからずに、夢シートが空欄の子もいた。発表を躊躇う子もいた。全て等身大。ありのままで良いと思う。

ディレクターの石川さん、アシスタントの河村さん。
お二人のあたたかいサポートで終始やさしい時間になった。



ユメセン@飯野小学校

[ ユメ先生講師 ]

2025年6月13日。愛知県豊田市立飯野小学校で、夢先生として登壇させて頂いた。今年度、初の夢先生。

対象は5年1組と2組。どちらのクラスも、最初から元気ハツラツ。目が合えばニコッと返してくれるし、リアクションも大きい。直前の打ち合わせで担任の先生から「世界へピース」「天まで届け」と言う学級目標も教えてもらった。

前半はゲームの時間
全力で動くって、やっぱり最高。夢先生のプログラムは、まずゲームから始まる。みんなで協力して、考えて、動いて、ぶつかって、笑って。全力で遊ぶ時間。

勝ったら嬉しいし、負けたら悔しい。何より大事なのは、「全力でやる」「協力すること」こと。子どもたちは、思い切り身体を動かしながら、自然と仲間と協力し、声をかけ合い、チャレンジしていた。


後半はトークの時間
教室に戻って、今度はトークの時間。伝えたかったのは、「本気」で挑戦することの大切さ。自分の人生を「本気」で生きているかは実は自分が一番分かっているんじゃないかと思う。

適当に過ごしていた中学生、高校生の頃の話。中部大学に進学して「本気」でハンドボールやり始めた矢先のユニフォーム係の話。ホンダ時代のストックランの衝撃。ドイツでの左膝脱臼。リハビリからの競技復帰。成功よりも失敗や挫折のほうが多かった。あと先考えず、ずっこけてばっかりやった。

うまくいく保証なんてどこにもない。でも、自分でやると決めて「本気」で挑戦することが大切やと思う。


アシスタントの泊さん
今回のアシスタントはトマちゃんこと泊志穂さん。元サッカー選手。一緒に活動するのは初めてだったけど、ゲームの時間の進行などサポートして下さった。

そして驚いたのが、おりひめJAPAN時代に一緒にハンドボールをした田邊さんと、なんと大学の同級生だった。授業の合間にトマちゃんが「くっしーさん、ベーちゃんって知ってますか?」って。懐かしくて思わず笑った。

スポーツって、こういう不思議な縁を何度もつないでくれる。

最後に
「夢」ってポンって出てくる子もいれば、うーんって唸りながら夢シートを書いている子もいた。それで良いと思う。

実際に僕は中学生、高校生の頃に「夢」なんて特に何も無かった。ハンドボール選手になりたいくてハンドボールを始めたわけではない。中学の体育の授業でハンドボールが体験できて、高校時代に何とく始めたハンドボールだった。ゆるゆるやった。当時、職業につながるとは1ミリも思って無かった。

飯野小学校のみんながこれからどんな道を歩むのか、楽しみやね。「夢」や「目標」に向けて「本気」で挑戦していると壁にぶつかったり、苦しい時が必ずくる。そんな時こそ、成長するチャンス。自分を信じて一歩ずつ進んでいって欲しい。

飯野小学校の5年1組、2組のみんなの「夢」を応援しています。



初フットサル観戦記  ~Fリーグ・ファイナルステージ in パークアリーナ小牧~

[ ユメ先生日々 ]

ハンドボール界隈にいる男、櫛田亮介がフットサルを初観戦。
場所はパークアリーナ小牧。Fリーグのファイナルステージ。SNSではチェックしていたが試合を見るのは今回が初めて。2/15は長男を連れて、2/16は一人で足を運んできた。純粋に初フットサル、楽しかった。

フットサル界隈の人々で面識があるのが松井さん(元JHL事務局長)、ウメちゃんこと梅田翼さん、木暮さん(Mr.フットサル、元日本代表監督)そして、小宮山さん(パルドラール浦安の監督)の4人。松井さん以外の3名はユメ先生で何度かご一緒させて頂いた。授業の合間にフットサルのお話を興味深く聞かせてもらっていたので、いつか必ず観戦したいと思っていた。念願叶って、漸く初観戦できた。

せっかくなので、ハンドボールフィールドからの視点でフットサルとハンドボールの共通点&違いがあって面白いと感じた部分を挙げてみる。

<<共通点があって面白かったところ>>
1.コートの広さとゴールサイズ
フットサルのコートは40m×20m。ハンドボールと同じで、ゴール幅3mも一緒。
だからなのか、なんとなくプレーの感覚が理解しやすい。

2.攻守の切り替えが爆速
フットサルはボールロスト後の切り替えがエグい。
ハンドボールも速攻は醍醐味だけど、フットサルも同様。

3.ゲームを作るフィクソ(後方の選手)
ハンドボールのセンター(ゲームメーカー)と似た役割をするポジション。
組み立てと守備のバランスを取る選手が試合を支配する。バスケットボールのポイントガード的な感じやろか?

4.体を張るピヴォ
サッカーで言うFWやろか?ハンドボールのポスト。バスケットボールのセンターかな。攻撃の時のダイヤモンド型の陣形の時に一人相手のDFの中にいて、中央に入る楔のパスを受けていた。ワンツーを狙ったりスキあらば前を向いてゴールを狙っていた。

4.交代が自由
ハンドボールと同様に、何度でも選手交代が可能。ハンドボールよりも頻繁に選手交代をする印象。チームによってはフルスロットルで動き回って2~3分で選手が交代していた。

5.パワープレーの駆け引き
試合終盤にリードを許しているチームは割とパワープレーを使っていた。フットサルの「パワープレー(GKをFPにして攻める)」はハンドボールの7人攻撃に似ていると感じた。

<<違いがあって面白かったところ>>
1.ベンチにいる交代選手が、ビブス着用(これはハンドボールにはない)

2.プレーごとに試合時間が止まる。ボールがコートを出た時、ファイルがあった時などは自動的に試合時間が止まっていた。(ハンドボールは基本的にレフリーが試合時間の止めない限りは進む。)なので、20分ハーフでも30~40分くらいかかっていた。

3.チームによってはビルドアップの時にGKも攻撃に参加して数的優位のキープしてボール回しをしていた。(ハンドボールではあまり見かけない。)

4.陣形がダイヤモンド型とボックス型かな?そこからトランジションしながら流動的にやっているように感じた。

実は今回Fリーグが自宅から車で30分圏内のパークアリーナ小牧で開催されていることを知ったのは1枚のハガキだった。Fリーグのファイナルステージが小牧で開催されていることを知らせるハガキが長男の通う小学校で配られていた。それを見て、偶然にも休日のタイミングが合って行けることになった。1/3以来の休みだったので、ホンマにタイミングが良かった。

フットサルのことで知っている個人は上記の4名で、知っているチームは名古屋オーシャンズくらいの浅い浅ーい、事前知識だった。

2/14(金)は平日開催ってこともあって試合会場には足を運べずにいた。でもこの2/14に名古屋オーシャンズvsパルドラール浦安(小宮山監督率いる)、一番観たいカードがあったのだ。浦安の勝利をSNSで知xつた。そして下記の記事を読み、小宮山さんの18年分の想いを知った。

小宮山監督の18年間の想いを知った記事

2/15にはパルドラール浦安の試合がなかった。2/16に再び、パークアリーナ小牧に足を運んだ。最終試合の浦安がコート脇でウォーミングアップを始めた。どんなウォーミングアップしているのか興味があったあので、近くにいって観察していた。小宮山さんと目が合った。(言葉は交わさなかったけどマジで、マジで、マジで頑張れって念力おくった。)

Fリーグ新王者誕生、18年間の思いを背負い、つかみとった頂点

初フットサル。生観戦。小宮山さんの率いるパルドラール浦安の優勝。全て最高でした。



ユメセン@大紀町立七保小学校からの大宮小学校

[ ユメ先生日々講師 ]


先日、三重県度会郡大紀町でユメ先生をさせて貰ってきた。

松阪市から下って大紀町に入ったので途中「櫛田川」を渡ったのだ。47歳のおっちゃんはそれだけでフワッとテンションが上がってしまう。

さて、午前は大紀町立七保小学校、午後からは大紀町立大宮小学校。どちらの小学校も一学年、一クラス。幼稚園の時からずーと同じ仲間と過ごしてきた5年生のみんな。

活発な子も、マイペースな子も、ずっと一緒に過ごしてきた。担任の先生たちも温かくて、担任の先生の人柄がクラスの雰囲気に滲み出ていた。

打合せの合間に教頭先生が、校内を案内してくださった。給食も学内で手作りしていた。

そして… な、なんと大谷翔平選手が日本全国の子供たちにプレゼントしたグローブを見せて貰えた。

今の自分の夢をみんなの前で勇気を出して話してくれた子。「まだそう言うのが無いから」ってうつむきながら教えてくれる子。クラスメイトの発表を聴いて心を込めた拍手で応援している子。ずっと一緒に過ごしてきた仲間だからこその優しい時間やったなぁ。

アシスタントはウメちゃんこと梅田翼さん。

ウメちゃんとは東北で一緒になることが多かったけど、今回まさかの三重県で本当に久しぶりの再会やった。

いや〜〜、ウメちゃんに会うとそれだけで嬉しくなるわぁ。



ユメセン@九久平小学校

[ ユメ先生 ]

豊田市立九久平小学校の5年1組のみんなに会ってきた。JFAの夢の教室である。体育館でのゲームの時間はアシスタントの久光さんの進行で、僕も5年1組のみんなの中に入って一緒に活動させてもらった。久光さんがルールを説明すると、こどもたちはホンマに真剣に話を聞く。どうやったらクリアできるか?バンバン、手を挙げてアイディアを出してくれる。みんなで出し合ったアイディアから作戦を決める。自分たちで考えた作戦をふざけることなく、クリアに向けてみんなで本気で協力しあう。ちょっとじゃなくて、だいぶ凄かった。

教室に移動して、まず僕が現役選手をしている時の映像を観て、ハンドボールってこんな競技だよって知ってもらう所からスタート。その後はトークの時間。小学校、中学校、高校と野球少年から少しハンドボールをやり出して、何とく日々ゆらゆらと過ごしていた10代中盤。そこから中部大学に進学して、本気モードでハンドボールに打ち込むようになった。大学の最初はユニフォーム係で、試合には全く出ることなく、チームで一番下手くそやった。そこからチームメイトと指導者に恵まれて少しずつ試合に出ることができるようになった。

大学卒業後にハンドボールを続けるなんて夢にも考えていなかった。就職活動して、一般企業でサラリーマンをする準備をしていた。4年生の夏以降に急に日本リーグへの道が開き出して、その後は気がつけば今である。まさか37歳まで現役選手を続けることができるなんて、考えてもいなかった。ドイツに行ってハンドボールするなんて1ミリも予定に無かった。人生わからんもんや。

「お前には無理や、無謀や、やめとけ」って言われる道ばかり進んできた。自分で決断して進んだ道で毎度のように壁にぶつかった。大怪我したり、解雇されたりしながら、多くの人に助けてもらって何とかもう一度ハンドボールができるようになった。

僕の話を聞いた後に今度は5年1組のみんながそれぞれの夢シートに自分の夢や目標を綴ってくれた。今はっきりとした夢や目標がある子もいれば、う〜んって悩みながら中々書けない子もいる。でも真剣に考えてくれていた。それでいいと思う。

今、ハッキリとした夢がある子は自分を信じて突き進んで欲しい。壁にぶつかった時にこそ自分を信じて欲しい。

今はまだハッキリとしたものがない子(僕はこっちだった。)も焦らなくていいし、周りと比べる必要もない。自分のペースで何か好きなことや、夢中になれることが見つかると良いなと思う。色々なことにアンテナ張って、興味を持って、自ら動いて欲しいなって思う。

実は中部大学ハンドボール部の学生(4年生)が小学校の時に夢の教室の授業を受けたそうだ。僕がユメシートに返事を書いている時に彼はそう教えてくれた。彼は今でも夢シートを大切に持っているそうだ。

凄いことだと思う。



ユメセン@宇美町立井野小学校

[ ユメ先生講師 ]

福岡県の宇美町立井野小学校でユメ先生として子どもたちに夢について話してきた。何度もユメ先生をさせてもらってきたけど、何度やっても独特の緊張感がある。子どもたちとの真剣勝負。それでもこの役割は特別。

僕が子どもたちに伝えたかったことは「本気」と「あきらめない気持ち」そういうことの大切さだ。僕自身はホンマにどこにでもいるごくごく普通の中学生、高校生やった。特に夢とか目標もなく。何となく毎日を過ごしていた。一生懸命やるとか、そういうのを避けている時期もあった。

でも自分でつまらなくしていることには自分が一番気がついていた。このままじゃあかんよなって思いながらもなかなか変えることできずにいた。大学生になったら何か一個本気で打ち込んでみよう。その対象がハンドボールだった。

中部大学に進学して、本気でハンドボールに打ち込むようになって大きく人生が変わった。学生のころは、ただハンドボールが楽しいだけ、上達するのが面白いだけで、ハンドボールが生業になるなんて夢にも思っていなかった。

大学4年の時は普通に就職活動して、いくつか内定を頂いた企業のいずれかでサラリーマンをする予定だった。4年生の西日本インカレで準優勝できて優秀選手に選んでもらえて、日本リーグの何チームからかお話を頂いて、あれよあれよと話が進んで、ハンドボールの世界に身を置くことになった。

ドイツで左膝を脱臼して途方に暮れていた時に、多くの人に支えてもらった。今でこそ、失敗や挫折もまた大切な経験。とか言えるけど、当時はそんな余裕は全くなかった。ただただ絶望していた。2年間は絶対に諦めずにリハビリすると決めて、意地になってリハビリを続けた。

1年11ヶ月10日経った。北陸電力ブルーサンダーで競技復帰することができた。そこから更に6シーズンもプレーさせてもらった。毎日、この日の練習や試合が人生最後のハンドボールかもなって思いながら気が付けば6シーズン、37歳まで現役選手を続けさせてもらった。

目標に向かう途中には何度も壁にぶつかる。全く思い通りにいかないことばかりだ。それでも夢中になって目標に向かい、壁にぶつかり、自分と向き合い、乗り越えていくことで、アスリートしても一人の人間としても成長できる。

今回のアシスタントはシッキーこと式田さん。1977年生まれの同世代。元サッカー選手でもあるシッキーがアシスタントとしてサポートしてくれた。もう10年以上前だけど、僕のユメ先生デビュー戦@越前市の時のアシスタントもシッキーだった。今回もシッキーが場を盛り上げてくれたおかげで、僕も話しやすかった。シッキー有難うね〜



ユメセン@更級小学校

[ ユメ先生講師 ]

長野県千曲市へ足を運んできた。更級小学校でのユメ先生である。更級小学校では既に2学期が始まっていた。8月末のこの時期にユメ先生に行くのは初めてだった。

当日の打合せで、「自主性」「思いやり」を大切にして学級運営していると担任の先生に教えてもらった。最初は体育館でゲームの時間。アシスタントのカワムさんからのお題が難しくて、なかなかゲームをクリアできなくて悪戦苦闘の子供たち。

作戦タイムでルールを再確認して、どうやったらゲームをクリアできるか?今はどうしてクリアできないか?限られた時間の中でアイディアを出して、みんなで考えた作戦をやってみる。

作戦を立てる前よりは、クリアに近づいているけど、それでも上手くいない。ちょっとふざけてしまったり、真剣にやっているけどカワムさんのフェイントに引っかかってしまったり。

またまた作戦タイム。こん感じで挑戦して、失敗して、また挑戦しての繰り返し。最後にクリアできた時のみんなの笑顔は最高やったね。

体育館から教室に移動して、今度はユメトークの時間。

特に夢や目標もなくゆるゆると過ごしていた小学生、中学生、高校生の頃の話から始まり。雨降って部活休みになれ〜って思ったり、負けて悔しいって言うてる翌日には、ハンドボール部やのに、ボーリング行ったり、カラオケ行ったり、そんな感じのゆるゆるハンドボール。部室でスラムダンク読んで上手くなった気分になって既に日が暮れていたり。

それはそれで悪くなかったけど、なんかモヤモヤしながら過ごしていた。常に漠然と、将来への不安があった。それでも将来のことを具体的に考えることは無かったし、何ならちゃんとすることを常に避けていた。

大学に進学して、本気でハンドボールに打ち込むようになって。少しずつ変わり始めた。大学で本気でハンドボールに没頭はしていたけど、日本リーグの道に進むなんて考えてもいなかった。と言うより、当時は日本リーグの存在を知らなかった。在学中の1997年に熊本県で開催された世界選手権の存在も知らなかった。

ホンダに進み、何年も連続して日本一のチームの万年補欠で、ストックランや日本代表の先輩たちに圧倒される毎日やった。ホンダ熊本に移籍して、ようやく出番を掴んだら、チームが日本リーグか徹底することになった。会社員として残る道もあったけど、一念発起して欧州へのチーム探し。

エストニア、スウェーデン、ドイツを回って、チームを探して。色々あったけど、最終的にドイツのピルナに拾ってもらった。一年目に優勝できて 4部から3部に昇格することができた。ドイツ2シーズン目の試合中に左膝を脱臼してしまった。複合靭帯損傷と診断され、お先真っ暗。約半年ボールを触ることもなく、前に進むこともなく、ただただ途方に暮れていた。カールハインツ(ピルナのファンのおっちゃん)の思いやりに触れ、何とかギリギリのところで生活していた。ピルナをクビになることが決まった。

帰国1週間前の大切な試合に当然呼ばれて、ベンチに入れてもらって、マティアス(当時の監督)に7mt打ってこいと指示をされ、ベンチから足をひきづりながら、コートイン。観客が立ち上がって拍手で後押ししてくれる中で7mtを打つことになった。「これがクシのドイツでの最後の仕事やから」ってベンチから送り出されて、半年ぶりに打ったヘロヘロシュートはあっさり相手GKに止められた。足をひきづりながらベンチに戻ると一気に悔しさが襲ってきた。「何で俺はこの半年立ち止まっていたんだろう。俺何やってたんや…」と。

ピルナを解雇されて日本に戻った。

先の見えないリハビリの日々が始まった。貯金を切り崩しながら意地になって2年間リハビリを続けて、何とか北陸電力ブルーサンダーで復帰させてもらった。

北陸電力ブルーサンダーでは左膝にテーピングをグルグルに巻きながら6シーズンもプレーさせて貰えた。当時は全然勝つことが出来なかったけど、福井での6シーズンはハンドボールでも仕事でも本当に素晴らしい経験になった。2015年、37歳まで現役選手をさせてもらった。

良い時ばかりではなく、壁にぶつかることの方が多かったけど、ゆるゆる高校生だった僕でも、大学で本気でハンドボールに没頭するようになって道が開けた。多くの人の支えや思いやりがあって37歳まで現役選手をやり切ることが出来た。

更級小学校のみんなの夢や目標が叶うと良いなって思うし、今は夢や目標が無くて何か自分が夢中になることを見つけたり、今過ごしている毎日を大切にできると良いなと思う。

ユメシート、届くの楽しみやなぁ。



ユメセン@長浜市立北中学校

[ ユメ先生 ]


2/16は滋賀県長浜市での夢先生。今回は長浜市立北中学校へ。久しぶりに中学生対象のユメセン。

僕はこの頃って人前で発言したり、自分の考えを伝えたり、本気っぽい感じを出すことに何か抵抗感があった。何でかわからんけど、あった。何なら、一生懸命な感じに嫌悪感すらあった。中学生、高校生の時なんて、僕は何でもテキトーで、バレなければええやろう。怒られなければええやろう。くらいに考えていた。

自分の人生やのに、他人事のようにしていた。将来について考えるってことを避けていた。その日さえ楽しければ良かったんやと思う。とか言いながら「これではアカンのやろうな」とは、自分が薄々気づいていた。

高校3年生の終盤になって「大学生になったら、何か本気でやってみよっかな。」って思うようになった。(その時も頑張れよ。櫛田くん。)それがたまたま「ハンドボール」だった。大本命って訳でも無かったけど、中部大学に一般受験で受かって「ハンドボール部」の門を叩いた。人生の大転換である。

色々あったけど、現在に至る。(はしょりすぎか?)

長浜市立北中学校のホームページに詳しく載せてもらっているやないの〜。

今、ハッキリと夢や目標がある人は、全身全霊でそこに向かって欲しい。

いやいや、そんな夢とか目標なんてないよって人は、自分が心から好きやって夢中になれるものが見つかりますように。

そう簡単に夢中になれるものなんて見つかるかいって人は、今の自分や、周りの人、毎日を丁寧にそして大切にして過ごせるといいなぁ。

僕は「ハンドボール」を「本気」でやるようになって人生が変わった。
それまでは、自分の人生を他人事のように生きていた。

「ハンドボールは人生の全てではない。しかしハンドボールは人生の一部である。一部であるハンドボールだからこそ、本気でやるのだ。」

今はこんな感じ。



夢の教室@浄水小学校

[ ユメ先生 ]

1ヶ月ほど前の話ではあるが、10/25は「夢の教室」に夢先生として登壇させて頂いた。今回は愛知県豊田市の浄水小学校へ足を運んできた。

ゲーム時間もトークの時間も子供たちは元気いっぱい。

みんなと歩調を合わせて協力しようとする子。
盛り上げようとして少しふざけてしまう子。
自分の得意な事でガンガン突き進む子。
将来2つやりたい事がはっきりある子。
あと一歩が踏み出せない子。

本当に十人十色。

僕は小学5年生の時にはっきりとした夢や目標なんて何も無かった。まさかハンドボールが職業になる。ハンドボールで生活していくなんて1ミリも頭に無かった。高校生になってからは何処で他人事のように毎日を過ごしていた。適当にそこそそやっていれば良いって思ってなんでもやり過ごしていた。

これではいかんのやろうなって薄々自分では気づいていたけど、見て見ぬ振りをして毎日を過ごしていたような気がする。将来についてをちゃんと考えたこともなかった。

「大学生になったら何か一つ本気で頑張ってみよう。」って思ったのが、たまたまハンドボールだった。大学から先でもハンドボールを続けることなんて考えてもいなかった。なんなら大学在学中に開催された世界選手権@熊本の存在すら当時は知らなかった。建築学科で勉強し単位は着実にとりつつ、ハンドボールに熱中する日々。しかし大学卒業後に自分が社会に出て、どうなっていくのか?具体的なイメージはなかった。

ぼんやりした状態で就職活動を始めて、スタートで大きくつまづいた。「これじゃいかん。社会に出るって甘くないと痛感した。」とほんまに思った。そこから就職活動も本腰入れてやりだして、いくつか内定を頂いた。

西日本インカレが終わって日本リーグの数チームから話を貰った。最終的にホンダにお世話になることを決めた。ホンダに決めた時は当時日本一だとか、ストックランがいるとか全然知らなかった。(アホやな。俺。)

ハンドボールの道に進みだしたのそこからである。そこからは失敗、挫折の連続で色んな人に助けて貰って現在に至る。人生どうなるかわからない。

僕のトークの時間を終えると、今度は夢シートへの記入時間。

子供たちが夢シートに将来の夢や今好きなこと、そのために今頑張ること、なんかを書き込む時間。

じっくり考えて書き込む子。
好きなことや夢を躊躇なくグイグイと書き込む子。
まだはっきりと夢や目標がなく頭を捻っている様子の子。

一度書き込んだ将来の夢を消しゴムで消している子がいた。

「どうしたの?」って声をかけた。
「ムリかなぁ。叶わないかなぁって思って消しちゃった。」って涙目になって細い声で教えてくれた。

ジッと目を観て、肩に手を置いて(心の中で大丈夫だガンバレ)って頷くことしか出来なかった。教室を後にする時もずっと僕の方を観ていた。目が合っていた。

インカレを終えて、函館から春日井に戻るとこの時の夢シートが送られてきた。姿勢を正して返事を書こうと思う。