ブログ&ニュース ( インタビュー )

【第7回】左腕坊主インタビュー(全7回)

[ インタビュー ]
今日の練習でケガをすれば、その時点で僕は引退。
―― だからこそ1日1日を悔いなくファイトしたい。
これだけは譲れない点や大切にしてる点はありますか。
今日この練習行ってもう一度左膝をケガしたら僕はそのまま引退やと思うし、試合に行って、また左膝やったらそこで引退やと思うので、絶対に悔いを残したくない。

全力でファイトしたいから、ちゃんと準備をして、しっかりテーピングを巻く、ストレッチする、アイシングする、しっかり寝る、食べる、分析する、すべてのことを全力で準備して、練習なり、試合に臨むことと、もう一度ハンドやれていることを感謝したり、楽しんだり、そういうことだけは日々絶対忘れないようにしてます。

どういうときが楽しいですか?
試合中は当然ですが、戦力的に少し劣るけど、しっかりと準備をして接戦に持ち込めたとか、勝てたとか、そういう研ぎすましたような展開が大好きなんですよ。ハンドに限らず。ジャイアントキリング(大物食い・番狂わせ)じゃないですけど。コーチしていても、自分が選手していても、練り上げていく感じ、ぎりぎりの緊張感。そういうのがすごく楽しい。プレー中、勝利した瞬間も楽しいですが、そこに向かう課程も楽しいです。

やってるときも楽しいし、終わってから振り返るのも楽しいし、その前に準備してるときも、こうなったらこうなるからとか、ニヤニヤしてんのも楽しいし、もう本当に全部楽しいです。自分がプレーしてても楽しいし、教えてても楽しいし。こんなこと言ったら不謹慎ですけど、負けて悔しいのですら楽しいです。次こそ絶対に勝つぞって。

調子悪くてとか、けがの状態があまり良くなくて試合に出られないとしても、出れない悔しさを味わえることが楽しかったですね。

それは、リハビリでまったく自分の身体が動かなかった経験があったからこそ味わえる楽しさななのでしょうか。
それはあると思いますね。何か、「ありがたい」みたいな感じなんですよね。こうやってハンドさせてもらって、仕事もさせてもらって、普通にこうやって生活させてもらえて、三食食べられて、「ほんまにありがたい」みたいな。

だからって、勝たなくていいとか、やれてさえいればいいというのはまったくないです。負けたらむちゃむちゃ悔しいし、試合に出られへんかったらむちゃむちゃ悔しいし、全日本入って、オリンピック出たいわとか、そういう大きな目標は選手を続けている限りは持っています。それもあるけど、やっぱり「ありがたい」というのはありますね。

コーチとしても活動されていますが、その辺りの経緯を教えてください。
うちのチームでは2012年度のシーズンからコーチ兼任選手をさせてもらっています。また2006年に日本ハンドボール協会の公認コーチの資格を取ったんですよね。いずれは指導者になりたいというのは若いときからあったので、僕自身、専門の指導者にちゃんと教えてもらったっていうのは大学入ってからやったというのがあって、「若年層のときに専門的なことをちゃんと教わってたら、俺はどうなってたんやろう?」みたいなことをずっと思いながらハンドしてましたから。

指導者の人はこうやって言ってるけど、おれやったらこうやって教えるなとか。何でもできる子にはこうやって言った方がいいかもしれないけど、分からん子もおるから、その子にはこう言った方がいいなというのは、10代後半とか、20代前半ぐらいから、そういうのはいつも思ってたんですよ。そういうのもあって、24歳ぐらいのときから、時間と依頼さえあれば、小、中、高、大学生、なるべく顔を出して子供達一緒にハンドをしていました。

伸びる選手と伸びない選手の違いは、どんなところにあると思いますか。
自分自身がこうなりたいと思ってる選手は伸びるのが早いと思います。チームでも、選手でも、組織でも、そうかもしれないですけれども、おれはこういう選手になりたいんだとか、こういうハンドボールをして、こういう成績残したいんだと、本人が思わない限りは、僕はそこに辿り着けないと思うんですね。

だから、漫然と練習に来て、いいシュート打てたわー、気持ちいいなぁ、今日は汗いっぱいかいて、というのは僕の中ではサウナ入ってるのと一緒やと思うんですよ。今月おれはこういうフェイントができるようになりたいから、今日こういう意識を持ってやるんやと思って来る人と、そうではない人はだんだん差が出てくると思うので。

でも、これがスポーツの難しいところなんですけど、そうやってまじめな人が、試合で結果を出すかって言ったら、一概にそうとも言えない。練習で60%くらいの力で勝手気ままにやってるけど試合で「ここは150%の力出さないと負ける。ここ勝負や」と思って150%出せる選手って、やっぱり活躍するじゃないですか。その辺は一概にどっちがいい、悪いとは言えへんので、この辺はこれから選手続けても、コーチとか指導者になっても永久に探究すべきテーマの一つやろうなとは思いますね。

引退された後は、やはり指導者としてやっていきたいですか?
そうですね。選手を引退しても一生何らかの形でハンドボールとは関わっていくつもりです。まずは指導者として次のステップを踏んでいきたいと考えています。一人でもハンドボールが好きな選手を増やしたい。選手一人一人が自分の目標にたどり着けるようにサポートしたい。そんな身近な目標もあります。

それと同時に、世界一魅力的なハンドボールをして世界一の指導者になりたい。少しでも高く自分の評価をしてくれるところなら、国や地域はどこでもいいから行きたい。ハンドボールの指導者として食べていきたいという大きな目標もあります。

また、やりたいこととは別ですが日本でプロリーグがないとあかんとは感じています。生きている間に、日本プロハンドボールリーグができて、そこで監督やれたら、最高ですよね。

それが果てしなく遠いのか、誰もやってないだけなのかも分からんし、そういうのってコーチの勉強だけしててもダメで、経営の勉強したり、スポーツ・マネジメントの勉強したり、どうやってスポンサー取っていくのかとか、どうやって地域を巻き込んでいくのかとか勉強せなあかんし、僕一人ではたぶん到底無理なことです。それこそその分野の専門家の協力が必要ですよね。

ハンドボールのことが大好きな人が一人でも増えて、それぞれ得意なことでずっとハンドボールに関わっていける。ハンドボールで食べていける。そんな理想的な日本ハンドボール界になってほしいと思います。

今後の櫛田選手のご活躍、そしてハンドボール界のますますの発展を期待しています。
ありがとうございました。

~おわり~



【第6回】左腕坊主インタビュー(全7回)

[ インタビュー ]
何て言うのかなぁ、
もう自分だけの左膝ではないような気がするんですよ。
リハビリ中は焦りの気持ちもあったかと思いますが、感情のコントロールはどうしていましたか?
2回目にドイツに行って、本当にあとちょっとでドイツで、またハンドの試合に出れるっていうときに、滞在ビザが取れなくて、契約がうまく行かなくてっていうときは、朝起きて何もしたくないような日が続いたんですね。

でも、自分だけのためだけやったら、自分でもうハンドやめるって決めて、仕事を普通に探したら楽やったと思うんですけど、日本リーグをやめてドイツへ行ってプロでやって、けがした後に僕がどうアクションを取るか、試されていると思っていました。

もう一回復帰するとか、仮にハンドをやめても仕事をしっかりしてるとか、そうやってこれから僕がどう生きて行くか、どう立ち居振る舞うかが、これから次にそういうことをしようと思う人たちにすごく影響するなっていう想いがあったから。

僕が海外行ってからも「どうやって海外行くんですか」「そっちどうですか」っていう連絡がよく来てた。なのに、僕が「もう無理や」って自暴自棄になったらいかん、何をするにしてもちゃんとしようっていうのがありましたね。良い意味で見られている、試されている、踏ん張り時なんやなって自分に言い聞かせていました。

それは後輩のためや、ファンのためだったりでしょうか?
後輩やファンの人もそうですし、リストラされた人とかケガした人とかが、電話をくれたり、手紙を送ってくれたり、ブログ読んでますってメールくれたりしていて。膝もいろんな人が診てくれたし、僕が頑張ることに共感してくれたり、頑張ろうと思ってくれる人がいるんやなって思ったら、ドイツに来るまでは自分のためだけにハンドしてたんですけど、そういう人たちのためにも頑張りたいとか。何て言うのかなぁ。もう途中から、なんか自分だけの左膝じゃないような気がしてきて。

大学時代も補欠、本田時代も補欠、そんなやつが海外へ行ってケガしたけど、何や頑張ってまたハンドも復帰して、仕事もしてるでーみたいなところを、そういう人たちと共有したいなという。「ほかの人が喜んでることが僕も嬉しい」みたいに、なんかだんだんだんだんなってきて。それが、そのとき折れかけた心をだいぶ支えてくれましたね。

だから、復帰したら、そういう人と想いを共有して一緒にハンド楽しみたいなぁ、頑張りたいなぁというのを思い描いて、日々なんとかリハビリしたり、就職活動したり、チーム探したりしてましたね。

誰かのために頑張るというのは、どういうことでしょうか。
誰かのためにとか、そんな大それた気持ちがあるわけじゃないんです。あくまでも好きだし、上手くなりたいし、勝ちたいからハンドボールをしています。自分の為です。自分の為にやっているハンドボールに変わりはないんですけど、僕の想いや、プレーを通して何かを感じてくれる人がいたり、喜んでくれる人がいるなら、そんな部分も受け止めて、力に変えて頑張りたいなって気持ちではいます。

ファンの方と試合会場で会ったりしたら、「あのときからブログ見てて応援してました」とか言ってもらえたりすると、ああ、ずっと見てくれてるんやな、よし頑張ろうかなっていうのがありますね。

その人だって何かに打ち込んでいたり、何かに悩んでいたりするわけだけど、お互いに自分のフィールドで頑張ろうぜって。

そういうのがポツポツといろんなところで出てきて、ほかの競技でケガした人とかが励ましてくれたりすると、自分一人のためじゃなくて、僕がハンドすることで何かを感じてくれる人がいるんやな、頑張れるなと思いますね。

ホンマに1度落ちるところまで落ちたので、今は本当にそういう人たちに感謝の気持ちを持ってやってます。ごく自然にそういう気持ちになりました。

リハビリが終わったのはいつですか。
実際にはまだ終わってないと言うか、今も競技しながら、試合も出ながら、今でもやっぱり機能障害みたいなのは残ってるんです。内側の靱帯は完全にはつながっていないし、片側にはあまり上膝が曲がらないし、逆側にはもう延々と曲がるんですね。

練習の度にテーピングを3,000円分ぐらい巻いて、その上にサポーターをしてやってるんですよ。
それでも朝起きると、やっぱり動き固くて、力入らないし、階段もちゃんと今でも降りられない。自分ではできると思っていても、やっぱり客観的に見ると、身体の動きも固いし、柔軟性がないし、足引きずっているっていう状態でした。

チームトレーナーの大西太一さんの指示による動作的なリハビリって言うか、コンディショニング・トレーニングみたいなものを今もなお継続的に続けています。

日本のチームから声がかかったのはいつでしょうか。
なぜ櫛田選手をチームに入れようって決断をされたのかは、わかりますか。
声をかけてもらったと言うよりは、自分から売り込みました。前監督に連絡して、挨拶行って、「一回練習に来ないか?」って言ってもらえたのが2009年の5月とか、そんなんですかね。

これは、あくまでも僕の予測でしかないですけど、どっちかって言ったらうちはおとなしい選手、黙々とやる選手が多いんで、そういう僕のバイタリティーだとか、そういう気持ちを前面に出したりだとか、リーダーシップをとれる、そういう波及効果があるような部分を期待してもらってたのかな。

あと、海外での経験だったり。あとは、うちのチームはそんなに身体のサイズが大きくないので、身体のサイズ的なこともあると思います。

結局2009年9月に現在の北陸電力ブルーサンダーに入団して、日本リーグに復帰しました。自分で決めた2年間という復帰までのタイムリミットまで残り3週間でした。



【第5回】左腕坊主インタビュー(全7回)

[ インタビュー ]
絶対に諦めずに2年間はリハビリ続けよう
それで無理やったら、もうスパッとやめよう。
ケガされてから、手術されるまでにどれぐらい期間がありましたか?
2ヵ月半ぐらいですかね。1回目の手術の時は、患部を切開してはみたものの、グチャグチャ過ぎて何も出来なかったみたいで、悪い血液とかを抜いただけ。腫れがひくのを待って、2ヵ月半ぐらいしてからですね。
手術した結果はどうなりましたか?
手術自体は、靱帯がちゃんとつながって、うまくいったみたいな話をされたんですけど、どこの靱帯をつなげたとかも、正直分からないんですよね。手術終わったらケガをした左足だけではなくて、右足もグルグルに包帯巻いてあったんですよ。

事前の説明では、全身麻酔をするから承諾してサインしてね、みたいな説明をされて、それは分かったってサインはしたんですけど。右足どうのこうのっていうのを、全然理解できてなくて。「なんで左足をケガしたのに、右足?」って言ったら、両膝裏の腱を取って、前十字と後十字靭帯に移植したと。

膝の中の骨を削って、穴を開けて、トンネル掘って、ボルトでつないで、前十字と後十字を再建しました。でも、不安じゃないですか、日本に帰ってもう一回手術したいって言ったら、「でも手術は成功してると思う」って言われました。

当時は向こうでちゃんとしたリハビリをさせてもらってなかったから、半信半疑やったんですけど、日本に帰って来て診てもらったら「ドイツの先生はゴッドハンドや。むちゃくちゃうまい」って言われました。

後遺症などありますか?
膝自体の慢性的な痛みとかはありません。一時期は太腿裏の肉離れに悩まされました。両膝裏の腱を1度取ってる、言ってみれば組織を人工的に壊してるわけじゃないですか。しょっちゅう「今のやばい」ってのはありました。あと今でこそ慣れてきましたけど、左足自体が思うように動かせませんでした。例えるなら利き手の反対で字を書いたり、箸を持っている感覚に近いっていうか、そういうしっくりこない感じはずっとありました。
手術後は、この後どうするか考えていましたか?
ハンド競技に復帰するために、絶対に諦めずに2年間はリハビリ続けようと。それ以上やって無理やったら、もうスパッとやめようというのだけ、締め切りを決めましたね。

いきなり決めたわけじゃないですけど。でも、あまりにもう……リハビリし出して、自分の足の指も動かせなかったりとか、「歩けるのかな?」くらいのひどさだったんで。だから、とにかく2年間って決めて、リハビリしてましたね。

2年間というのは、何がその基準だったのですか?
いや、別に科学的根拠はまったくないですね。やっぱりそのとき、30歳でけがしたんで、現実的にハンドできなくなったとしても、人としては生きていかなあかんわけじゃないですか。そう考えたらやっぱり、次に何するかが大きな岐路にはなるじゃないですか。だから、なんとなく32、3歳で、もう引退をするならそこぐらいで何か次のことも……まあハンドのコーチしたりとか、一生関わっていくとは思うんですけど、無理やった場合はもうそこぐらいかなという考えです。
その2年間はどうされたのですか?
ドイツのチームの契約を解除されて、大西貴幸トレ―ナ―のもとでリハビリしてました。大西さんには「まず人の足に戻しましょう」と言われましたね。完全につま先が外向いていたし、骨盤も変形してましたから。だから、とにかくつま先をまっすぐ出せて、膝もまっすぐ出せる歩き方をまず絶対にできるようにしようと。

それとあわせて、筋力をまず戻していきましょう、そしてアライメントって言うんですけど、膝の動きや筋肉を正しく調整するために足の指でタオルで掴んだりとか、スクワットしたりだとか、ゴム引っかけてこうやって動かす練習だとかを延々と1日何時間も。全部で50種類くらいあったと思いますけど、本当に複合的にいろんなメニューをその都度やりました。

リハビリの後はどうされましたか?
2008年の3月から8月までそこでお世話になってたんですけど、まだランニングもできないのに、僕アホみたいにもう一度ドイツに行ったんですよ。日本に帰って来る前に、何もなしで帰って来たら、ドイツで復帰できへんと思ったから。また同じようにDVD持って、ドイツのほかのチームに、手当たり次第行ってたんですよ。「今けがしたけど、また復帰したい」って言って。

もうレベルなんてどこでもいいから、とにかくハンドがやりたいっていうのを話したら、ドイツの5部ぐらいのチームから、「ジュニアのコーチをしながら復帰を目指して、けがの状態が良くなったら選手に復帰しないか?」という感じの話が来て。

「走れもせえへんくせに」って大西さんに呆れられたんですけど、結局行ったんです。ただ、リーマン・ショックのあおりなのか、3ヵ月の間に滞在ビザが取れなくて、チームとの契約はしたんですけど、3ヵ月以上いると不法滞在になるんってことで、やむを得ず2008年の11月に日本に帰って来ました。そこからは日本リーグの全チームにまた手紙書いて、なんとか復帰したいんやっていう話で。そこからはもうずっと日本にいましたね。

そのセールス・プロモーションと言うか、営業活動はすごいと思います。
そういったやり方はご自身で考えられたのでしょうか。それとも、そういうことをされてる方がほかにいらしたのですか。
いや、自分でです。そうする以外になかったっていうだけのことなんですけどね。代理人もいないですし、リハビリだって、僕が頑張らない限り、歩けるようにも、ハンドできるようにもならないし。僕が自分でチーム探さないことには誰も見つけてくれない、ただのけが人なんで。だから、自分で、必死になって動いていました。

今だったらちゃんと代理人を探して、ビザを取ったり、契約の内容をまとめたりは専門家に任せて、自分がよりプレーに集中・専念できるようにすると思います。ただ、それは今だから分かることであって、自分でやったからこそ、行動できる力みたいなものが養われたように思いますね。



【第4回】左腕坊主インタビュー(全7回)

[ インタビュー ]
選手生命の危機に陥る、左膝靭帯断裂の重傷
―― 痛さと悔しさで、ボロボロと泣けてきた。
ドイツのチームでは、日本での練習環境と大きな違いを感じましたか?
練習時間が日本の3分の2くらいなんですよね。ホンダ時代は3時間前後やっていましたけど、向こうはパッと集まって、2時間スパッとやって、パッと終わる。日本だとホンダのハンド部専用の体育館なので僕らが自由に使えるけど、向こうはクラブチームで所有しているので、僕らがハンドをやった後、違う種目のスポーツチームが入ってくるんですよね。そういう事情もあって、練習時間が短いんです。

あとはやっぱり、日本だといくら「プロ意識を持とう」と自分で思っていても、結局のところはプロじゃないじゃないですか。僕が日本でやってたチームに限っては、普通に仕事の対価としてのサラリーをもらう仕組みになっているわけで、日本一になっても、逆に1試合も出なかったとしても、給料は一緒なんですよね。

でも、ドイツではハンドボールの選手としてのサラリーがあって、プラス勝ち点を取ったらいくらというインセンティブがつく。純粋に、ハンドでどれだけ活躍できるかだけが評価の対象になる。笑ってしまうんですけど、僕がチーム最多の11得点をあげて、チームが勝利した翌日に、新しい洗濯機がスポンサーから届いたこともありました。

向こうに行ってみて、日本リーグでプロ意識を持つことと、実際にプロになることは、まったく違うんだなというのは感じました。

ドイツでは大きなケガもされたとのこと、どういう状況でけがをされたのですか。
真ん中のプレーヤーと大きくクロスして、真ん中へ回ってシュートを打とうとしたら、身長2mくらいの大きなディフェンスが接触してきたので、シュート打たずにいったんボールをさばいたんです。

で、「パスが返ってくるから立たないと……」と思った瞬間に、左膝の靭帯を断裂してしまったんです。自分の左足、膝から下があり得ない方向に曲がってしまった。でも、興奮してるんで、ちょっとわけがわからない。あれ、なんか立たなあかんけど、完全に足おかしいなと思って。

よく交通事故に遭ったときに、時間がゆっくり流れるって言うじゃないですか。本当にああいう感じで、痛いとかは全然なくて、うわっパス返ってくるし、でも膝こんなんやし、うわっ、おれこれもう絶対あかんわ、引退やとか、生活できへんようになるとか、クビになるとかがずっとグルグルグルグル頭の中で回って、やばいやばいやばいってなって、審判も何のことかわからんからプレー続けてるんですよ。

審判に日本語で「タイム、タイム、タイム、足あかん」って言ったら、「ピッー」て試合が止まって、観客が「櫛田の足おかしなってる」って気づいて、チームのトレーナーがベンチからすっ飛んで来て。

担架で運ばれて、ハーフタイムのときにちょうど救急車が来た。ハーフタイムのときにみんな観客とかも下りてきてくれて、救急車のところで、何言ってるかわかんないですけど、がんばれよーだったか、ナイスファイトやったーだか言ってくれて、そんな感じでそのまま病院です。

そのときは、どういう気持ちなのでしょうか?
「これからどうやって生きて行けばいいんやろ?」っていうのが本当に一番でしたね。前年優勝できて、2シーズン目もケガする前の試合で決勝ゴール決めたりしてたんですよ。めちゃめちゃ調子良くて……。

病院連れて行かれても、ドイツ語の医療用語は分かんないですし、何か手術か入院かさせてくれるのかなと思ったら、自宅に帰されたんですよ、結局。ベッドが空いてないか何か分かんないですけど。

自宅に帰されて、夜中になって、さすがに足がパンパンに腫れてきて、むちゃくちゃ痛いんですよ。夜中に目覚めてトイレ行こうと思っても、もう血が全部ここ(左膝)に行ってるからか分かんないですけど、膝がパンパンに腫れて気持ち悪いことになってて。

でも、寝返り1つ打ってトイレに行くだけに1時間ぐらいかかって、汚い話ですけど、ションベン漏れそうやし、ボロボロボロボロ泣けてきて。「もうほんまにどうしよう」って。

その後、病院に入院されたのでしょうか?
そうですね。3日?4日後にもう1回チームのスタッフと病院に行って、初めてMRIやらレントゲン撮ったら、そこでスタッフが「ああもう、あかんわぁ」みたいな感じのリアクション。医者からも「もう日本に帰って、余生は釣りでもしたら?」と言われました。

普通、膝って前十字靱帯と、後十字靱帯と、内側と、外側と、半月板ってあって、どれか1つ傷めても大変なのに、僕はこれ全部をやってしまった。だからもう完全にグラグラで。

膝って三次元的な動きをするじゃないですか。だから、靱帯がこれだけ切れたら、もう軸が取れないんです。医者も「たぶん自分ではまっすぐ歩けないよ。ハンドなんてもうあり得へん、あり得へん」みたいなニュアンスでしたね。それを聞いた途端、やっぱりチームのスタッフは、ああこれもうおってもしゃあないから、どのタイミングで日本帰すかなぁとか、契約どうするかなぁっていうシビアな話をしていたみたいです。それは雰囲気でなんとなく分かりましたね。

日本に連絡取られましたか?
靱帯をつなぐ手術を日本でするのか、ドイツに残ってするのかも、最初は自分だけで判断できなかったので、大学の恩師の蒲生監督に連絡をして、心当たりのあるドクターとか聞いたりしました。ドイツに行く直前頃に医大生のハンドボールチームのコーチをさせてもらっていた縁があったので、そこの先生にも直接聞いたら、「今このタイミングで帰るとエコノミー症候群になるから、ドイツでやった方がいい」っていうのと、「ドイツの外科医療は世界最先端だからドイツで手術した方がいい」って言われたので、残って手術することにしました。


【第3回】左腕坊主インタビュー(全7回)

[ インタビュー ]
自分の長所を分かってもらうのは言葉よりも映像。
―― そう思って協力者を独力で探し、DVDを送った。
ヨーロッパのプロリーグを目指すために、どのようなことをしたのですか?
最後のシーズンは個人的に調子が良かったので、良かったプレーを自分でDVD編集して、エストニアでプレーしている吉田耕平(元チームメイト)に送ったんですよね。そうしたら、日本でプレー経験のある彼のチームメイトのブルーノ(元湧永製薬)が僕の映像を見て「この選手だったらヨーロッパでもやれるんじゃないか」って、まぁ、お世辞半分かもしれないけど言ったっていうのをメールで彼が教えてくれた。

それで、「ああ本当にやれるんかなぁ」って、少しずつ思うようになって、レギュラーシーズンと並行しながら、ドイツとスウェーデンとエストニアと知り合いを辿って、そのチームの方にDVDを送ってもらったんです。

まったくの赤の他人みたいな人にもメールとスカイプで「僕はこういう思いで挑戦したいんだ」って伝えていきました。シーズンが終わって本田技研熊本には「ホンダ熊本の事は大好きだし、このチームで成長させてもらったので感謝していますが、僕はほかのチームへ移ろうと思います。」という話をさせてもらいました。

とは言ってもまだホンダの社員なので、ゴールデン・ウィークと有休をありったけ使わせてもらって、自分に興味持ってくれてたチームに、エストニアとスウェーデンとドイツに、練習参加させてもらったり、トライアウトを受けに行ったんですよ。

海外にDVD送られたり、実際に行かれたりするときは、言葉の壁や意識の違いがあったと思いますが、そこをどうやって乗り越えたのでしょうか?
言葉の壁は正直、結局乗り越えられてはいないとは思うんですけど、でも最初は片言の英語だけだし。そのときは、代理人も別にいないし、こうやったら海外のプロでやれるっていう教科書もありませんし。

ただがむしゃらに動いて、自分のいいところを分かってもらうのは言葉よりも映像やと思って、直接見せるのが早いやろうと思って行ったりとか。本当に、無鉄砲やったから行けたのかなと。

極端な話ですが、英語がまったくしゃべれない状態でも、行けたと思いますか?
プレーするだけなら、別に行けるとは思いますけど、結局いちばん困るのは契約やビザなんです。結果的にピルナと契約してドイツでプレーしましたが、出された契約書は、英語じゃなくてドイツ語なんですよね。だから今思えば、プロとしてやるのであれば、ちゃんと代理人を伴って行った方が絶対いいと思います。でも、日本人の誰が代理人をやってくれるのかも、どこにそういう連絡したらいいのかも、当時は分かりませんでした。
契約書はどうやって読んだのでしょうか?
1回目、ドイツの2部のアウェから契約書が来ました。たしか英語表記だった気がします。金額も書いてあって、それは通訳の方に訳してもらって、「これぐらいもらえるよ」という感じで理解しました。

でも結局、出発4日前にそのチームとは契約破談になったんですよ。メインのスポンサーが下りたから来るなという感じで。職場には退職願いを出しているし、航空チケットも取ったし、お世話になった人みんなに挨拶してたのに「これからどうすんねん?」と。

でも、連絡しても向こうは夏のバカンスに入ってるので連絡取れないし。もう「自分でまた行くしかないわ」と思って片道切符もう1回買ったときに、ドイツの当時4部のピルナというチームが、「興味を持ってる」という連絡が入りました。

契約破談のあと、どうされたのでしょうか?
すぐにプレーを見せに行ったんです。「日本の1部でやってたのにドイツの4部って……」って、最初行く前は思いましたが、行ったら僕より大きい選手ばっかりやし、本当にブンデスリーガ(ドイツリーグ1部)目指していくっていう意気込みも感じたし、ピルナにはチェコ人とか、セルビア人とか、ナショナル経験ある選手とかもたくさんいたんですよ。

監督に「おれはこういうハンドボールがしたいんだ」みたいなことを片言の英語で話したら、ドイツ人なんですけど、何か浪花節な感じの監督で、そのフィーリングも良くて、練習に2週間ぐらい参加したらドイツ語の契約書が出てきた。

当時僕はドイツ語しゃべれなかったので、片言の英語がしゃべれるチェコ人が助けてくれました。「これぐらいもらえるから大丈夫。サインしていい。いい契約だと思う」と言ったのを信じてサインしました。もし彼が僕に嘘ついてたら、大変なことになってますけどね(笑)。

入団したチームは、櫛田さんのことを何で知ったのでしょうか。
僕がDVDを送ったわけじゃないんですよね。女子球界の第一人者の田中美音子さんからの紹介でノルウェーで当時ハンドボールのコーチ留学をしていて、今筑波大の女子の監督をしてる山田永子さんがDVDをいろんなところに配ってくれたり、ドイツのチームを探すのを助けてくれました。僕が分からないところで、いろんな人が向こうで動いてくれていました。
人と人とのつながりを経て、入団につながったということでしょうか。
そうですね。海外でプレーやコーチをしている人を日本で教えてもらって、連絡先を聞いて、そこに行ってみて、その人が自分のチームや他のチームの事情を教えてくれてアドバイスしてくれます。きちんとしたネットワークが構築されているわけではないです。

スウェーデンの場合、当時はおそらくハンドボールの日本人プレーヤーやコーチがいませんでした。でも、スポーツ雑誌『Number』に日産の卓球部を辞めて、スウェーデンに行っている石田大輔選手の記事が載ってて、サイトがあったので、そこにアクセスして、「ハンドボールしたいんや」って実名入りのメッセージを送ったら石田選手から連絡いただきました。

向こうはクラブチームなので、卓球もあれば、ハンドもあるじゃないですか。「DVD送ってくれたら、僕が住んでる周囲のハンドボールのチームに配りますよ」って言ってくれたんです。

石田選手にはとてもお世話になりました。スウェーデンで石田選手と初めて会って、「じゃあ明日ここのチーム行こうか」とか、「今度このチーム行こうか」という感じで。スウェーデンを回りきった後は、石田選手と離れてドイツに入りました。



【第2回】左腕坊主インタビュー(全7回)

[ インタビュー ]
エストニアでプロとして活躍してきた吉田耕平の姿を
純粋に「男としてかっこええなぁ」と思った。
大学卒業後はどうされたのですか。
大学時代は、社会人でも続けられるなんて思ってなかったので、普通に就職活動して、内定もいくつかもらってましたね。でも、その4年生の夏に西日本インカレの決勝まで行って、優秀選手賞を取った時に、日本リーグの数チームが興味を持ってくれたみたいです。そのあたりから、ハンドボールを続けていきたいなって考えるようになりました。

でも、同期15人のうち、大学卒業時に日本リーグへ行けたのは僕だけでした。(後に大学同期の長谷川聖はトヨタ車体で活躍していますが。)日本リーグ全体としても、僕らの代で日本リーグに行ったのはたぶん全国で5、6人ぐらいしかいなかった。だから、本当に狭き門やったと思うんですよ。

4年生の時は、同級生の中で一番上手い選手だったのですか。
いや、そんなことはないです。同期に全国屈指のコントロールタワーがいて、彼が作ってくれたチャンスを点にしていた。だから、得点自体はチームでいちばん番多いとは思うんですけど……でも、レギュラーになり出した春先の頃はたぶん足引っ張ってばっかりやったんで。

そんな中、蒲生監督が「日本リーグのチームから話があるけど、どうする?」って聞いてくれて。どこが強いとか当時は全然知らなかったんで、「本田技研鈴鹿でお世話になります」と答えました。

本田技研に入社された時の環境はいかがでしたか?
チームは僕が入った時に6年連続日本一を達成中でほとんどが全日本メンバーだったし、世界選手権での優勝、ブンデスリーグ得点王の経験があるフランス代表のストックランも助っ人でいましたしね。当時ベンチに入れたのは14人かな。本田技研鈴鹿のベンチに入るってことは、サッカーで例えるなら、全日本代表メンバーがメインのチームの一員になるようなものだったんです。

しかも僕、世界トップのストックランと、ポジションが同じだったんです。全日本の同じポジションのレギュラー格の人がストックランの控えとしていて、僕はさらにその人の下。

大学1年の時は「頑張ったらいつか絶対レギュラーになれるわ」とか「選手としての伸びしろは絶対に負けへんわ」って、まあ下手くそなんですけど、努力さえすれば絶対試合には出れるって思えたんですね。でも、本田技研鈴鹿のときは、自分がストックランを乗り越えてレギュラーを取れるなんてイメージは、なかなか現実のものとして思い描けなかったですね。ストックランをサッカーで例えるなら、メッシやC・ロナウド、ジダン、ネイマールみたいな存在です。その世界的な名手とポジションが同じ…。今考えると、自分で無理だと思う時点で可能性をなくしていたんだと反省していますが、それこそあり得ない話なんですけど、一日24時間以上練習したとしてもストックランに勝てるとは思えなかったです。

部員が20人ほどいて、その中で14人がベンチに入れる。自分は、下位チームとの対戦のときは使ってもらえたりするんですけど、日本一を懸けた試合なんかはベンチ入れずに、応援席で先頭になって太鼓叩いたりしてました。それでも毎日、世界一の選手とポジション争いをしていると言う事は、世界一の経験が毎日できるって気持ちをシフトしてトレーニングに励んでいました。

本田技研鈴鹿では結局レギュラーを取ることはできなかったんですよ。そして、4シーズン目に本田技研熊本に移籍して。同じ会社なので社内人事的には異動なんですけど、でもライバルチームに移ったんです。そこからチームのレギュラーとして日本リーグの試合にコンスタントに出られるようになりました。

その後はどうされたのですか?
本田技研熊本で1シーズンやった後にチームの方針が変わり、「今後は大卒のルーキーは採りませんよ」ということになってしまった。ほかのチームに移籍したりで、主力がゴッソリ抜けたんですよ。僕は「強化選手で呼んでもらったのに、ここですぐ抜けるのは不義理やな」とか、自分勝手に責任を背負いこんで「おれは残って続ける」って思ってやってました。

でも、3シーズン目のときに、もういよいよ「このチームにこれ以上おったらあかん。今期で最後にしよう。」って自分で決めて、個人でしっかり結果残そうという覚悟でシーズンに臨みました。

精神的にはしんどかったんですけど、個人の成績に限っては、その本田技研鈴鹿での3シーズン、本田技研熊本での2シーズンの合計5シーズンの総得点よりも、ラスト1シーズンの方が得点を取れたんですよ、69得点、全試合得点しましたね。

チームは全然勝てなかったんですけど、気持ちをシフトして、どんだけ点差が離れて負けていても、ここで1点、2点を取ることが来年自分がどこかでやれるかどうかにかかってくると思って。それに、やっぱり熊本が好きだったし、応援してくれてた人にはやっぱり活躍してるところを見てもらいたかったんで、そういう思いで最後の1年はやってました。

本田技研熊本を辞めてから、どのようなことを考えていましたか?
まず先に思ったのは、古巣の本田技研鈴鹿に帰りたかったんですよ。それに、やっぱり世界のホンダっていう企業を辞めるのは、常識的に考えてナンセンスじゃないですか。

もう1つの選択肢は、当時日本リーグ王者のチームで、しかもソウルオリンピックでメダルを取った素晴らしい韓国人監督が率いていたんですけど、その監督がシーズン中から「うちへ来い」ってよく声をかけてくれていたんですよ。

最後の選択肢は、海外に行くこと。以前、本田技研熊本で一緒にプレーしていた吉田耕平が、エストニアに行ったんです。彼がオフのときに日本に帰って来て会った時に、プレーヤーとしてはもちろん、人としても「こんなに日本出たら差つくんか!」っていうくらい成長していた。歳は僕の1個下なんですけど、純粋にやっぱり「男としてかっこええなぁ」ってすごく思って。

「かっこええなぁ」と、どのようなところを見て感じたのですか?
「日本を出たからこそ、より日本のことが好きになった」とか「日本人として大切にしたい考え方がわかった」とか、そういうことですね。それに、僕らは会社に所属する形でプレーしてましたけど、彼はもう向こうでプロでやってたので、家族の生活をかけてやってる姿はかっこいいなと思いました。

そういうのを見て、「こんなぬるま湯でやってたらあかんわ」っていうのを、当時は20代後半でしたけど、僕はすごく感じましたね。そのときに初めて「ハンドボールでメシ食ってみたい。自分がどこまでやれるかヨーロッパで挑戦したい」と思ったんです。



【第1回】左腕坊主インタビュー(全7回)

[ インタビュー ]
「おれが求めてるのは、何かを真剣にやることなんやな」
―― 高校時代、友人の姿を見て初めて気づかされた。
まず、ハンドボールを始めた経緯を教えていただけますか。
中学校のときは野球部だったんですけれども、体育の授業でハンドボールがあったんですよ。そのときの体育の先生が、大阪体育大学出身で、ハンドボールのインカレでベスト7、優勝経験もある方で、先生が「おまえハンドボール部入れよ」って誘ってくれてて。

ただ、当時は先生の実績も知らないし、途中で野球部をやめるのも嫌だったし、先生の誘いは断り続けていました。高校に入るにあたって、野球を続けるか、新しいことをやるかって考えたときに、ハンドボールやってみようかなと思って。

高校の部活は、どのような雰囲気でしたか。
高校は、顧問の先生が形だけいるような感じの愛好会みたいな部でしたね。みんなでバーベキュー行ったり、カラオケ行ったり……。で、大会近くなったらちょっと練習して、ぐらいの、そういうノリのチームでした。チームメイトとはすごく仲良くて、今でもたまに連絡をとったりしています。

ただ僕は、小・中と野球を真剣にやってきたので、「うーん、なんかちょっと違うな」っていうのはありました。こういう楽しさを、おれは求めてるわけじゃないんだって。

そんな思いを抱きながら部活を続けてて、ある時小学生時代からの友達から電話もらったんです。「高校サッカーの冬の選手権でテレビに出るから見てくれよ」って。そいつは運動神経が抜群に良くて、サッカーがめちゃくちゃ上手い奴でした。

でも、テレビに映ったそいつは、プレーヤーとして映ったんじゃなくて、応援席で顔にペイントする姿だったんです。それってレギュラーになれなかったってことだから、決してかっこ良くはないじゃないですか。でも、そいつの毎年の年賀状には「何がなんでもやめへん」とか「続けようと思う」とか「レギュラーにはなれなかったけどもやって良かった」みたいなことが書いてあったんです。

「ああ、おれが求めてるのは、こうして何かを真剣にやることなんやな」っていうことに気づいた。だから、大学に行ったらもう1回何かに打ち込もうと思ったんです。大学は一般受験で入って……、だから競技スポーツとしてハンドボールを本格的にやり出したと言えるのは大学からですね。

入学した中部大学はハンドボールの強豪校ですよね。最初は苦労されませんでしたか?
そうですね。インカレには当時でも20年以上、今では30年以上ずっと出てるし、東海リーグの優勝を争うチームではありましたね。全国で言うと、ベスト16?ベスト8くらいのチームだったと思います。

僕以外はハンドボールの推薦で中部大に入ってるんですよ。インターハイに出てたり、インターハイで得点王だったり……部員約40人のうち、僕ともう一人でしたね、一般入試で入って来た人間は。

僕が一番下手くそでした。当時の僕からしたら、みんな段違いにうまかった。対外試合前のアップでも、下手くそな僕がそのアップに一緒に入ると敵になめられるから、「おまえはロッカールームでユニフォームを畳んどいてくれへん?」って先輩に言われたりとか。

本当にチームメイトが当たり前にできることを、僕はそのときに初めて見た・聞いたぐらいのレベルの差だったので、練習ついていくのもやっとだし、「なんでこんなとこ入ったんやろう?」って、1年生の間は思ってましたね。

レベルがまったく違った段階から、みんなに追い着いたのはいつ頃でしたか?
試合にレギュラーとして出られたのは、最後の1年間、4年生のときだけだったんですよ。1年生のときはもう、箸にも棒にも引っかからない状態で、本当に雑用だけ。同級生が「櫛田はおれらに勉強を教えてくれ。その代わりにおれらがハンド教えたるから一緒に頑張ろうぜ」みたいなことを言ってくれて。

彼らは「おまえは左利きで背が高い。おれらが4年になったときにシュートをどんどん決められるようになってくれたらいいから」って言って、フットワークの練習とか、筋トレを一緒にやってくれました。

ごはん一緒に食べて「身体大きくしようぜ。いきなり20㎏太れへんけど、1年で5㎏とかやったら、月にしたらペットボトルのちっちゃいの1本分ぐらいやから一緒に頑張ろう」と。それで少しずつ、少しずつって感じです。

そして、4年の時に全日本の監督経験もある蒲生さんという方が僕らの監督に就任したんです。今まで同級生だけで、感覚的に身体作りや技術練習をやっていたんですけど、蒲生監督が来て、「こういうときはこういう役割があるんだ」とか「こういうときはこう守った方」がいいっていう戦術・戦略をすごくタイムリーに教えてくださったので、僕としてはグッと成長できた。今振り返ると、自分のハンドボール人生の最初の大きな成長期やったんかなと思いますね。