ブログ&ニュース ( 2013年9月 )

【第4回】左腕坊主インタビュー(全7回)

[ インタビュー ]
選手生命の危機に陥る、左膝靭帯断裂の重傷
―― 痛さと悔しさで、ボロボロと泣けてきた。
ドイツのチームでは、日本での練習環境と大きな違いを感じましたか?
練習時間が日本の3分の2くらいなんですよね。ホンダ時代は3時間前後やっていましたけど、向こうはパッと集まって、2時間スパッとやって、パッと終わる。日本だとホンダのハンド部専用の体育館なので僕らが自由に使えるけど、向こうはクラブチームで所有しているので、僕らがハンドをやった後、違う種目のスポーツチームが入ってくるんですよね。そういう事情もあって、練習時間が短いんです。

あとはやっぱり、日本だといくら「プロ意識を持とう」と自分で思っていても、結局のところはプロじゃないじゃないですか。僕が日本でやってたチームに限っては、普通に仕事の対価としてのサラリーをもらう仕組みになっているわけで、日本一になっても、逆に1試合も出なかったとしても、給料は一緒なんですよね。

でも、ドイツではハンドボールの選手としてのサラリーがあって、プラス勝ち点を取ったらいくらというインセンティブがつく。純粋に、ハンドでどれだけ活躍できるかだけが評価の対象になる。笑ってしまうんですけど、僕がチーム最多の11得点をあげて、チームが勝利した翌日に、新しい洗濯機がスポンサーから届いたこともありました。

向こうに行ってみて、日本リーグでプロ意識を持つことと、実際にプロになることは、まったく違うんだなというのは感じました。

ドイツでは大きなケガもされたとのこと、どういう状況でけがをされたのですか。
真ん中のプレーヤーと大きくクロスして、真ん中へ回ってシュートを打とうとしたら、身長2mくらいの大きなディフェンスが接触してきたので、シュート打たずにいったんボールをさばいたんです。

で、「パスが返ってくるから立たないと……」と思った瞬間に、左膝の靭帯を断裂してしまったんです。自分の左足、膝から下があり得ない方向に曲がってしまった。でも、興奮してるんで、ちょっとわけがわからない。あれ、なんか立たなあかんけど、完全に足おかしいなと思って。

よく交通事故に遭ったときに、時間がゆっくり流れるって言うじゃないですか。本当にああいう感じで、痛いとかは全然なくて、うわっパス返ってくるし、でも膝こんなんやし、うわっ、おれこれもう絶対あかんわ、引退やとか、生活できへんようになるとか、クビになるとかがずっとグルグルグルグル頭の中で回って、やばいやばいやばいってなって、審判も何のことかわからんからプレー続けてるんですよ。

審判に日本語で「タイム、タイム、タイム、足あかん」って言ったら、「ピッー」て試合が止まって、観客が「櫛田の足おかしなってる」って気づいて、チームのトレーナーがベンチからすっ飛んで来て。

担架で運ばれて、ハーフタイムのときにちょうど救急車が来た。ハーフタイムのときにみんな観客とかも下りてきてくれて、救急車のところで、何言ってるかわかんないですけど、がんばれよーだったか、ナイスファイトやったーだか言ってくれて、そんな感じでそのまま病院です。

そのときは、どういう気持ちなのでしょうか?
「これからどうやって生きて行けばいいんやろ?」っていうのが本当に一番でしたね。前年優勝できて、2シーズン目もケガする前の試合で決勝ゴール決めたりしてたんですよ。めちゃめちゃ調子良くて……。

病院連れて行かれても、ドイツ語の医療用語は分かんないですし、何か手術か入院かさせてくれるのかなと思ったら、自宅に帰されたんですよ、結局。ベッドが空いてないか何か分かんないですけど。

自宅に帰されて、夜中になって、さすがに足がパンパンに腫れてきて、むちゃくちゃ痛いんですよ。夜中に目覚めてトイレ行こうと思っても、もう血が全部ここ(左膝)に行ってるからか分かんないですけど、膝がパンパンに腫れて気持ち悪いことになってて。

でも、寝返り1つ打ってトイレに行くだけに1時間ぐらいかかって、汚い話ですけど、ションベン漏れそうやし、ボロボロボロボロ泣けてきて。「もうほんまにどうしよう」って。

その後、病院に入院されたのでしょうか?
そうですね。3日?4日後にもう1回チームのスタッフと病院に行って、初めてMRIやらレントゲン撮ったら、そこでスタッフが「ああもう、あかんわぁ」みたいな感じのリアクション。医者からも「もう日本に帰って、余生は釣りでもしたら?」と言われました。

普通、膝って前十字靱帯と、後十字靱帯と、内側と、外側と、半月板ってあって、どれか1つ傷めても大変なのに、僕はこれ全部をやってしまった。だからもう完全にグラグラで。

膝って三次元的な動きをするじゃないですか。だから、靱帯がこれだけ切れたら、もう軸が取れないんです。医者も「たぶん自分ではまっすぐ歩けないよ。ハンドなんてもうあり得へん、あり得へん」みたいなニュアンスでしたね。それを聞いた途端、やっぱりチームのスタッフは、ああこれもうおってもしゃあないから、どのタイミングで日本帰すかなぁとか、契約どうするかなぁっていうシビアな話をしていたみたいです。それは雰囲気でなんとなく分かりましたね。

日本に連絡取られましたか?
靱帯をつなぐ手術を日本でするのか、ドイツに残ってするのかも、最初は自分だけで判断できなかったので、大学の恩師の蒲生監督に連絡をして、心当たりのあるドクターとか聞いたりしました。ドイツに行く直前頃に医大生のハンドボールチームのコーチをさせてもらっていた縁があったので、そこの先生にも直接聞いたら、「今このタイミングで帰るとエコノミー症候群になるから、ドイツでやった方がいい」っていうのと、「ドイツの外科医療は世界最先端だからドイツで手術した方がいい」って言われたので、残って手術することにしました。


金魚鉢の中のサメ

[ 日々 ]

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久しぶりに石田学に会った。職業、サッカー監督。元サウルコス福井の監督。

その後、デッツォーラ島根の監督を務めた。

サッカーとハンドボール。

競技は違えど、同じスポーツ、同じゴール系球技ってこともあり、ほんまに色んな話をしてきた。

お互いのチームの応援にも足を運んだ。今はそんなに頻繁に連絡を取り合っているわけではないが、節目節目で近況報告をする仲だ。

久しぶりに会って、いろんな話をした。

プロの世界、プロサッカー監督の世界はシビアだ。

相変わらず、チャレンンジングな学、前を見ている学、クレイジーな学。

次ぎに会うまでまたお互いに頑張ろう。



さばスポだぜ!!!

[ さばスポハンドボールスクール ]

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今週水曜日は今月2度目のさばスポのアスリート派遣事業でした。

今回も小学3年生のちびっ子達と一緒にハンドボールを楽しんできました。

ラダー&コーンを使いながらのランパス、シュート&1対1、そして10分×2本のゲーム。

今回も楽しそうにやっていました。

チームメイトの廣瀬、池上、宮下、桜井たちも自分達のトレーニングの後に覗きにきてくれましたぜ。

ホームゲームではこの子達が応援に来てくれます。

「クッシーコーチ、94番のクッシーコーチ。」

「クッシーさん、今度は勝ってね。」

地域に愛されて、そして勝てるチームになっていかないとね。



琉球コラソン戦

[ 2013/2014 シーズン(北陸電力BT) ]

高山から福井に戻った。さすがに凹んでいる。

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昨日、今日の2連戦はホンマに今季の勝負所やと思って準備をし、臨んだ試合だった。

どちらも勝つ事が出来なかった。

今のこの環境の中で、このメンバーで…。

「何ができるか?」

「どうすれば勝負に持ち込めるか?」

「その為にどんな準備をすればいいのか?」

「自分は何ができるのか?」

まだまだ足りないという事。

合成、東日本、コラソン…。

対戦し、日本リーグのHPでスコアを追いかけ、色々と感じる。

自分達が自分のいるチームの事をあきらめたら、そこで終わる。

ファイティングポーズを解いたら、そこで終わる。

まだまだ厳しい闘いは続くと思う。けど、「本気」になればもっとやれる。

東京国体を挟んで、豊田合成戦。

福井から、高山まで応援に駆けつけてくれた皆さん、そして素晴らしい会場を用意してくれた高山の皆さん本当に有り難うございました。(ほんまに素晴らしい試合会場、雰囲気でした。)



トヨタ紡織九州戦

[ 2013/2014 シーズン(北陸電力BT) ]

福井でのホームゲームは残念ながら勝つ事が出来なかった。

たくさん人に応援に来てもらって、良いプレーをして、勝ちたかった。

自分達が今季掲げた目標を達成する為に、今日は本当に大事な試合だった。

けど、勝てなかった。

明日は、高山で琉球コラソン戦。

勝っても、負けても、最善の準備をして試合に臨む。

当たり前の事を、当たり前に。

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【第3回】左腕坊主インタビュー(全7回)

[ インタビュー ]
自分の長所を分かってもらうのは言葉よりも映像。
―― そう思って協力者を独力で探し、DVDを送った。
ヨーロッパのプロリーグを目指すために、どのようなことをしたのですか?
最後のシーズンは個人的に調子が良かったので、良かったプレーを自分でDVD編集して、エストニアでプレーしている吉田耕平(元チームメイト)に送ったんですよね。そうしたら、日本でプレー経験のある彼のチームメイトのブルーノ(元湧永製薬)が僕の映像を見て「この選手だったらヨーロッパでもやれるんじゃないか」って、まぁ、お世辞半分かもしれないけど言ったっていうのをメールで彼が教えてくれた。

それで、「ああ本当にやれるんかなぁ」って、少しずつ思うようになって、レギュラーシーズンと並行しながら、ドイツとスウェーデンとエストニアと知り合いを辿って、そのチームの方にDVDを送ってもらったんです。

まったくの赤の他人みたいな人にもメールとスカイプで「僕はこういう思いで挑戦したいんだ」って伝えていきました。シーズンが終わって本田技研熊本には「ホンダ熊本の事は大好きだし、このチームで成長させてもらったので感謝していますが、僕はほかのチームへ移ろうと思います。」という話をさせてもらいました。

とは言ってもまだホンダの社員なので、ゴールデン・ウィークと有休をありったけ使わせてもらって、自分に興味持ってくれてたチームに、エストニアとスウェーデンとドイツに、練習参加させてもらったり、トライアウトを受けに行ったんですよ。

海外にDVD送られたり、実際に行かれたりするときは、言葉の壁や意識の違いがあったと思いますが、そこをどうやって乗り越えたのでしょうか?
言葉の壁は正直、結局乗り越えられてはいないとは思うんですけど、でも最初は片言の英語だけだし。そのときは、代理人も別にいないし、こうやったら海外のプロでやれるっていう教科書もありませんし。

ただがむしゃらに動いて、自分のいいところを分かってもらうのは言葉よりも映像やと思って、直接見せるのが早いやろうと思って行ったりとか。本当に、無鉄砲やったから行けたのかなと。

極端な話ですが、英語がまったくしゃべれない状態でも、行けたと思いますか?
プレーするだけなら、別に行けるとは思いますけど、結局いちばん困るのは契約やビザなんです。結果的にピルナと契約してドイツでプレーしましたが、出された契約書は、英語じゃなくてドイツ語なんですよね。だから今思えば、プロとしてやるのであれば、ちゃんと代理人を伴って行った方が絶対いいと思います。でも、日本人の誰が代理人をやってくれるのかも、どこにそういう連絡したらいいのかも、当時は分かりませんでした。
契約書はどうやって読んだのでしょうか?
1回目、ドイツの2部のアウェから契約書が来ました。たしか英語表記だった気がします。金額も書いてあって、それは通訳の方に訳してもらって、「これぐらいもらえるよ」という感じで理解しました。

でも結局、出発4日前にそのチームとは契約破談になったんですよ。メインのスポンサーが下りたから来るなという感じで。職場には退職願いを出しているし、航空チケットも取ったし、お世話になった人みんなに挨拶してたのに「これからどうすんねん?」と。

でも、連絡しても向こうは夏のバカンスに入ってるので連絡取れないし。もう「自分でまた行くしかないわ」と思って片道切符もう1回買ったときに、ドイツの当時4部のピルナというチームが、「興味を持ってる」という連絡が入りました。

契約破談のあと、どうされたのでしょうか?
すぐにプレーを見せに行ったんです。「日本の1部でやってたのにドイツの4部って……」って、最初行く前は思いましたが、行ったら僕より大きい選手ばっかりやし、本当にブンデスリーガ(ドイツリーグ1部)目指していくっていう意気込みも感じたし、ピルナにはチェコ人とか、セルビア人とか、ナショナル経験ある選手とかもたくさんいたんですよ。

監督に「おれはこういうハンドボールがしたいんだ」みたいなことを片言の英語で話したら、ドイツ人なんですけど、何か浪花節な感じの監督で、そのフィーリングも良くて、練習に2週間ぐらい参加したらドイツ語の契約書が出てきた。

当時僕はドイツ語しゃべれなかったので、片言の英語がしゃべれるチェコ人が助けてくれました。「これぐらいもらえるから大丈夫。サインしていい。いい契約だと思う」と言ったのを信じてサインしました。もし彼が僕に嘘ついてたら、大変なことになってますけどね(笑)。

入団したチームは、櫛田さんのことを何で知ったのでしょうか。
僕がDVDを送ったわけじゃないんですよね。女子球界の第一人者の田中美音子さんからの紹介でノルウェーで当時ハンドボールのコーチ留学をしていて、今筑波大の女子の監督をしてる山田永子さんがDVDをいろんなところに配ってくれたり、ドイツのチームを探すのを助けてくれました。僕が分からないところで、いろんな人が向こうで動いてくれていました。
人と人とのつながりを経て、入団につながったということでしょうか。
そうですね。海外でプレーやコーチをしている人を日本で教えてもらって、連絡先を聞いて、そこに行ってみて、その人が自分のチームや他のチームの事情を教えてくれてアドバイスしてくれます。きちんとしたネットワークが構築されているわけではないです。

スウェーデンの場合、当時はおそらくハンドボールの日本人プレーヤーやコーチがいませんでした。でも、スポーツ雑誌『Number』に日産の卓球部を辞めて、スウェーデンに行っている石田大輔選手の記事が載ってて、サイトがあったので、そこにアクセスして、「ハンドボールしたいんや」って実名入りのメッセージを送ったら石田選手から連絡いただきました。

向こうはクラブチームなので、卓球もあれば、ハンドもあるじゃないですか。「DVD送ってくれたら、僕が住んでる周囲のハンドボールのチームに配りますよ」って言ってくれたんです。

石田選手にはとてもお世話になりました。スウェーデンで石田選手と初めて会って、「じゃあ明日ここのチーム行こうか」とか、「今度このチーム行こうか」という感じで。スウェーデンを回りきった後は、石田選手と離れてドイツに入りました。



24回目の引っ越しだったり、初めての試合中止だったり…

[ 日々 ]

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9月に入って日本リーグが開幕して、気づけばもう9月も2/3が過ぎ去りました。本当に早い…。週末は試合、平日は仕事&トレーニングというサイクルで一週間あっという間に過ぎていきます。

初案件を抱えていた福井&富山での仕事が無事終わったと思ったら、今度は人生24回目の引っ越し…。そして、台風18号の影響で人生初の公式戦の中止を経験…。

9月序盤&中盤はドタバタしてましたが、引っ越しも一段落しました。いよいよ今週末は大事な2連戦、トヨタ紡織九州&琉球コラソン戦です。

今シーズン3試合しか無い福井でのホームゲーム。何とか勝ちたいね。会場一杯になるとええねぇ。

9/21(土) 福井 北陸電力福井体育館フレア
15:00~ 北陸電力×トヨタ紡織九州

9/22(日) 岐阜 飛騨高山ビッグアリーナ
13:00~ 北陸電力×琉球コラソン

そうそう、この写真の右側のベンチやけど、赤塚(北電)、富田(トヨタ車体)、仲井(元デュッセルドルフ)などなど日本リーガー&ブンデスリーガーが横になって、眠って、寝癖をつけていった、由緒正しきベンチです。(他にもいたかもしれへんけど、忘れた…。)

当然、僕も普段から横になっています。みんなにハゲが伝染しても僕は知らん。



さばスポ 9月1発目!!!

[ さばスポ ]

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どーも櫛田です。今日は自分のトレーニングを終えて、Jr.チームのみんなと一緒にハンドボールやってきました。さばスポのアスリート派遣事業です。

昨日はチームメイトのGK廣瀬&ルーキー池上も駆けつけてくれました。

ステップワーク&ボールハンドリングのコンビネーションドリルを競争しながらやったり、二人一組でやったりとみんな夢中で頑張っていました。

最後の試合は15分やっても同点、4分の延長戦でも同点と白熱してましたなぁ。みんな勝負にこだわりまくって、必死でボールを追いかけていましたよ。

「クッシーコーチ、あと1分だけ、再延長したいーーー。お願いします!!!」

「お願い、お願い、あと30秒はだめ???」

とかいうて、3年生のみんなホンマに必死。

「来週もくるから、また来週しようぜ。なっ!!!」

「おおおっ。じゃあ、来週もねっ!!!」

ってな感じで一件落着。最後にみんなでコートに一礼して、モップを掛けて無事終了!!!



【第2回】左腕坊主インタビュー(全7回)

[ インタビュー ]
エストニアでプロとして活躍してきた吉田耕平の姿を
純粋に「男としてかっこええなぁ」と思った。
大学卒業後はどうされたのですか。
大学時代は、社会人でも続けられるなんて思ってなかったので、普通に就職活動して、内定もいくつかもらってましたね。でも、その4年生の夏に西日本インカレの決勝まで行って、優秀選手賞を取った時に、日本リーグの数チームが興味を持ってくれたみたいです。そのあたりから、ハンドボールを続けていきたいなって考えるようになりました。

でも、同期15人のうち、大学卒業時に日本リーグへ行けたのは僕だけでした。(後に大学同期の長谷川聖はトヨタ車体で活躍していますが。)日本リーグ全体としても、僕らの代で日本リーグに行ったのはたぶん全国で5、6人ぐらいしかいなかった。だから、本当に狭き門やったと思うんですよ。

4年生の時は、同級生の中で一番上手い選手だったのですか。
いや、そんなことはないです。同期に全国屈指のコントロールタワーがいて、彼が作ってくれたチャンスを点にしていた。だから、得点自体はチームでいちばん番多いとは思うんですけど……でも、レギュラーになり出した春先の頃はたぶん足引っ張ってばっかりやったんで。

そんな中、蒲生監督が「日本リーグのチームから話があるけど、どうする?」って聞いてくれて。どこが強いとか当時は全然知らなかったんで、「本田技研鈴鹿でお世話になります」と答えました。

本田技研に入社された時の環境はいかがでしたか?
チームは僕が入った時に6年連続日本一を達成中でほとんどが全日本メンバーだったし、世界選手権での優勝、ブンデスリーグ得点王の経験があるフランス代表のストックランも助っ人でいましたしね。当時ベンチに入れたのは14人かな。本田技研鈴鹿のベンチに入るってことは、サッカーで例えるなら、全日本代表メンバーがメインのチームの一員になるようなものだったんです。

しかも僕、世界トップのストックランと、ポジションが同じだったんです。全日本の同じポジションのレギュラー格の人がストックランの控えとしていて、僕はさらにその人の下。

大学1年の時は「頑張ったらいつか絶対レギュラーになれるわ」とか「選手としての伸びしろは絶対に負けへんわ」って、まあ下手くそなんですけど、努力さえすれば絶対試合には出れるって思えたんですね。でも、本田技研鈴鹿のときは、自分がストックランを乗り越えてレギュラーを取れるなんてイメージは、なかなか現実のものとして思い描けなかったですね。ストックランをサッカーで例えるなら、メッシやC・ロナウド、ジダン、ネイマールみたいな存在です。その世界的な名手とポジションが同じ…。今考えると、自分で無理だと思う時点で可能性をなくしていたんだと反省していますが、それこそあり得ない話なんですけど、一日24時間以上練習したとしてもストックランに勝てるとは思えなかったです。

部員が20人ほどいて、その中で14人がベンチに入れる。自分は、下位チームとの対戦のときは使ってもらえたりするんですけど、日本一を懸けた試合なんかはベンチ入れずに、応援席で先頭になって太鼓叩いたりしてました。それでも毎日、世界一の選手とポジション争いをしていると言う事は、世界一の経験が毎日できるって気持ちをシフトしてトレーニングに励んでいました。

本田技研鈴鹿では結局レギュラーを取ることはできなかったんですよ。そして、4シーズン目に本田技研熊本に移籍して。同じ会社なので社内人事的には異動なんですけど、でもライバルチームに移ったんです。そこからチームのレギュラーとして日本リーグの試合にコンスタントに出られるようになりました。

その後はどうされたのですか?
本田技研熊本で1シーズンやった後にチームの方針が変わり、「今後は大卒のルーキーは採りませんよ」ということになってしまった。ほかのチームに移籍したりで、主力がゴッソリ抜けたんですよ。僕は「強化選手で呼んでもらったのに、ここですぐ抜けるのは不義理やな」とか、自分勝手に責任を背負いこんで「おれは残って続ける」って思ってやってました。

でも、3シーズン目のときに、もういよいよ「このチームにこれ以上おったらあかん。今期で最後にしよう。」って自分で決めて、個人でしっかり結果残そうという覚悟でシーズンに臨みました。

精神的にはしんどかったんですけど、個人の成績に限っては、その本田技研鈴鹿での3シーズン、本田技研熊本での2シーズンの合計5シーズンの総得点よりも、ラスト1シーズンの方が得点を取れたんですよ、69得点、全試合得点しましたね。

チームは全然勝てなかったんですけど、気持ちをシフトして、どんだけ点差が離れて負けていても、ここで1点、2点を取ることが来年自分がどこかでやれるかどうかにかかってくると思って。それに、やっぱり熊本が好きだったし、応援してくれてた人にはやっぱり活躍してるところを見てもらいたかったんで、そういう思いで最後の1年はやってました。

本田技研熊本を辞めてから、どのようなことを考えていましたか?
まず先に思ったのは、古巣の本田技研鈴鹿に帰りたかったんですよ。それに、やっぱり世界のホンダっていう企業を辞めるのは、常識的に考えてナンセンスじゃないですか。

もう1つの選択肢は、当時日本リーグ王者のチームで、しかもソウルオリンピックでメダルを取った素晴らしい韓国人監督が率いていたんですけど、その監督がシーズン中から「うちへ来い」ってよく声をかけてくれていたんですよ。

最後の選択肢は、海外に行くこと。以前、本田技研熊本で一緒にプレーしていた吉田耕平が、エストニアに行ったんです。彼がオフのときに日本に帰って来て会った時に、プレーヤーとしてはもちろん、人としても「こんなに日本出たら差つくんか!」っていうくらい成長していた。歳は僕の1個下なんですけど、純粋にやっぱり「男としてかっこええなぁ」ってすごく思って。

「かっこええなぁ」と、どのようなところを見て感じたのですか?
「日本を出たからこそ、より日本のことが好きになった」とか「日本人として大切にしたい考え方がわかった」とか、そういうことですね。それに、僕らは会社に所属する形でプレーしてましたけど、彼はもう向こうでプロでやってたので、家族の生活をかけてやってる姿はかっこいいなと思いました。

そういうのを見て、「こんなぬるま湯でやってたらあかんわ」っていうのを、当時は20代後半でしたけど、僕はすごく感じましたね。そのときに初めて「ハンドボールでメシ食ってみたい。自分がどこまでやれるかヨーロッパで挑戦したい」と思ったんです。



「ミズノ ウエーブ ステルス 2 ビクトリアブルー 2013」

[ パートナー ]

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昨日の開幕戦でもはいていたミズノのハンドボールシューズです。

ここ数年、ヒュンメルの天然レザーのシューズをメインシューズにしてきたけど、廃盤みたいで手に入りに憎くくなっとりました。

困ったなと思っていたらmelisさんがこのシューズをピンポイントで教えてくださいました。

僕は、実際にしばらく自分で使ってみて調子がいいものしか、ここに載せません。頑固者でございます。

約1ヶ月程はいてみましたが、かなりいい感じです。軽いです。ランニングシューズをはいている感覚に近いです。

どことなく、ブルーサンダーのチームカラーっぽいしかなり気に入っています。

melisさん、ありがとうございました!!!