7月が終わろうとしている。春学期も終盤。レポートなど課題や期末試験などを終えると学生たちは長い夏休みが待っている。もうあと一踏ん張りと言ったところかな。
僕も15週の講義を終えた。健康科学とスポーツC(ハンドボール)の2つの講義を担当した。受講してくれた全ての学生に感謝しています。有り難うございました。
さてさて、ここからはハンドボールの話。ほとんど、いやいや丸ごと吉田の話。
7月15〜24日までバーレーンにて開催された第17回男子ジュニアアジア選手権でハンドボール男子日本代表U-21が初優勝を飾った。
中部大学からも中島遼也(2年生)が出場。予選ラウンド第1戦では、MOM(Man Of the Match)にも選出されるなど、左サイドの主軸として頑張ってくれた。
準決勝、決勝戦共にライブ配信を観させてもらったが、両試合ともにDF陣とGKの奮闘を感じた。奮闘というレベルを超越していた。
一人目が9~10m付近でハードに接触し、盾になる。そこから溢れてきたら、すかさず隣のDFがカバーにいく。意地でも中央突破を許さない。言葉で言うのが簡単だが、これを国際レベルで一試合、そしてここ一番で出しきるのは簡単ではない。至難の業だ。
中央のDF4枚はもちろん、両外を守る選手も含めて鬼気迫るDFだった。フリースローを取るたびに、雄叫びをあげながらガッツポーズする姿を何度も観た。
その背後でロングシュートやサイドシュートを止めまくるGK陣。GKが好セーブをする度にベンチで立ち上がって選手以上の熱量でガッツポーズをする吉田の姿があった。
話を少し2週間ほど前に戻そう。7月10日には東海大学付属諏訪高校、関西大学北陽高校が中部大学に来てくれた。吉田は関西大学北陽高校の監督をしている。
ハンドボール界の大悪友・吉田。
吉田とは2001年に日本代表βチームで初めて一緒になった。その後、僕がホンダからホンダ熊本に移籍し1シーズン一緒にプレーした。そのあと彼はアラコ九州(現トヨタ紡織九州)を経由してエストニアに活躍の場を移した。
家族を連れて。
プロフェッショナルとしてハンドボールで食っていく姿は最高に男前(おっとこまえ)やった。その吉田の影響を受けまくったのか僕も数年後に・ホンダ熊本を辞めてドイツへ渡った。
余談だけど、ドイツでチームを探す時に、植松さん(U21日本代表監督)にめちゃくちゃ助けてもらった。
その後、吉田は大崎電気へ。僕は北陸電力へ。今度は日本リーグで対戦することになった。吉田は僕よりも一足先に現役を引退し、母校の関西大学北陽高校へ。
僕も2015年から指導者になり、今はお互いに指導者として頑張っている。
三重バイオレットアイリスの監督時代も大阪での試合の際はちょいちょい応援してくれた。「俺は友だち応援するんじゃっ」ってほんまに応援してくれちゃう吉田。(これって結構すごいことだピョン)
その吉田は関西大学北陽高校と中部大学との練習試合を終えて「アジアチャンピオンになってくるわ」って言うて、其の足でU21日本代表合宿に向かった。GKコーチとして参加するためにである。
それから2週間後にバーレーンで本当に史上初のアジアチャンピオンになった。ベンチで顔を真っ赤にして、日本のGK陣に指示を出し、檄を飛ばす吉田。それに応える若き守護神たち。
かっこええわ。ほんまに。ありがとう。
よっさんおかえり、また頑張ろう。
写真は2006年5月@エストニア、チョコレートボーイズにて。
写真右が吉田。左から2番目が櫛田。