長野県千曲市へ足を運んできた。更級小学校でのユメ先生である。更級小学校では既に2学期が始まっていた。8月末のこの時期にユメ先生に行くのは初めてだった。
当日の打合せで、「自主性」「思いやり」を大切にして学級運営していると担任の先生に教えてもらった。最初は体育館でゲームの時間。アシスタントのカワムさんからのお題が難しくて、なかなかゲームをクリアできなくて悪戦苦闘の子供たち。
作戦タイムでルールを再確認して、どうやったらゲームをクリアできるか?今はどうしてクリアできないか?限られた時間の中でアイディアを出して、みんなで考えた作戦をやってみる。
作戦を立てる前よりは、クリアに近づいているけど、それでも上手くいない。ちょっとふざけてしまったり、真剣にやっているけどカワムさんのフェイントに引っかかってしまったり。
またまた作戦タイム。こん感じで挑戦して、失敗して、また挑戦しての繰り返し。最後にクリアできた時のみんなの笑顔は最高やったね。
体育館から教室に移動して、今度はユメトークの時間。
特に夢や目標もなくゆるゆると過ごしていた小学生、中学生、高校生の頃の話から始まり。雨降って部活休みになれ〜って思ったり、負けて悔しいって言うてる翌日には、ハンドボール部やのに、ボーリング行ったり、カラオケ行ったり、そんな感じのゆるゆるハンドボール。部室でスラムダンク読んで上手くなった気分になって既に日が暮れていたり。
それはそれで悪くなかったけど、なんかモヤモヤしながら過ごしていた。常に漠然と、将来への不安があった。それでも将来のことを具体的に考えることは無かったし、何ならちゃんとすることを常に避けていた。
大学に進学して、本気でハンドボールに打ち込むようになって。少しずつ変わり始めた。大学で本気でハンドボールに没頭はしていたけど、日本リーグの道に進むなんて考えてもいなかった。と言うより、当時は日本リーグの存在を知らなかった。在学中の1997年に熊本県で開催された世界選手権の存在も知らなかった。
ホンダに進み、何年も連続して日本一のチームの万年補欠で、ストックランや日本代表の先輩たちに圧倒される毎日やった。ホンダ熊本に移籍して、ようやく出番を掴んだら、チームが日本リーグか徹底することになった。会社員として残る道もあったけど、一念発起して欧州へのチーム探し。
エストニア、スウェーデン、ドイツを回って、チームを探して。色々あったけど、最終的にドイツのピルナに拾ってもらった。一年目に優勝できて 4部から3部に昇格することができた。ドイツ2シーズン目の試合中に左膝を脱臼してしまった。複合靭帯損傷と診断され、お先真っ暗。約半年ボールを触ることもなく、前に進むこともなく、ただただ途方に暮れていた。カールハインツ(ピルナのファンのおっちゃん)の思いやりに触れ、何とかギリギリのところで生活していた。ピルナをクビになることが決まった。
帰国1週間前の大切な試合に当然呼ばれて、ベンチに入れてもらって、マティアス(当時の監督)に7mt打ってこいと指示をされ、ベンチから足をひきづりながら、コートイン。観客が立ち上がって拍手で後押ししてくれる中で7mtを打つことになった。「これがクシのドイツでの最後の仕事やから」ってベンチから送り出されて、半年ぶりに打ったヘロヘロシュートはあっさり相手GKに止められた。足をひきづりながらベンチに戻ると一気に悔しさが襲ってきた。「何で俺はこの半年立ち止まっていたんだろう。俺何やってたんや…」と。
ピルナを解雇されて日本に戻った。
先の見えないリハビリの日々が始まった。貯金を切り崩しながら意地になって2年間リハビリを続けて、何とか北陸電力ブルーサンダーで復帰させてもらった。
北陸電力ブルーサンダーでは左膝にテーピングをグルグルに巻きながら6シーズンもプレーさせて貰えた。当時は全然勝つことが出来なかったけど、福井での6シーズンはハンドボールでも仕事でも本当に素晴らしい経験になった。2015年、37歳まで現役選手をさせてもらった。
良い時ばかりではなく、壁にぶつかることの方が多かったけど、ゆるゆる高校生だった僕でも、大学で本気でハンドボールに没頭するようになって道が開けた。多くの人の支えや思いやりがあって37歳まで現役選手をやり切ることが出来た。
更級小学校のみんなの夢や目標が叶うと良いなって思うし、今は夢や目標が無くて何か自分が夢中になることを見つけたり、今過ごしている毎日を大切にできると良いなと思う。
ユメシート、届くの楽しみやなぁ。